(苦悩するパキスタン 水谷章著から抜粋)
ISIの目的の特定は困難を伴うが、これまでの行動から性向について整理をすれば、
以下の点を列挙できます。
① 文民の政治家、特に人民党(PPP)を嫌う
② スンニ派のイスラム武装組織に親近感を持っており、シーア派に不信感を抱いている
③ アフガニスタンとインドの分断を狙い、アフガニスタンの親パキスタン化を目指している
④ 中央アジア諸国がスンニ派のイスラム国になる事を期待し、それによって南アジアで
優位に立つのを志向する
⑤ 1996年にタリバンが政権をとると、国際イスラム戦線をアルカイダとタリバンらが
結成するのを支援した
2003年のムシャラフ大統領暗殺未遂事件への関与は、カシミール過激派や
アルカイダとの繋がりを暗示する
⑥ 9.11事件後には、ムシャラフ大統領によって(アメリカの要求によって)タリバンや
アルカイダと繋がるメンバーが排除された
だが、依然としてタリバン・シンパが存在する
⑦ 大量破壊兵器の関連技術への関心が強い
イスラム過激派がパキスタンの核技術を狙っているのに、それに対する防護措置が
明確となっていない
⑧ パキスタン軍とは、必ずしも一枚岩ではない
合わせて留意すべきなのは、『9.11事件はアメリカCIAによる仕組まれた罠』との見方が根強く存在する事です。
(9.11がアメリカの自作自演である事は、多くの勇気ある方々の情報公開により、
もう確定した状況です)
その視点に立てば、ISIやアルカイダはアメリカの道具としての位置づけになるが、
ISIの一見不合理な行動が合理的に説明できる側面もあります。
カナダ在住のアビド・ウラー・ジャンの著作『BCCIからISIまで』から、
ISIとCIAの繋がりを示唆する事実を紹介します。
① 1999年のインド航空機ハイジャック事件によって、イギリス籍のオマール・
サイード・シェイクは交換・釈放された。
彼は、94年のイギリス人誘拐事件によりインドの刑務所で服役していたのだが、
服役中の弁護士費用はISIが負担していた。
シェイクはイギリスに戻ったが、英米の当局は9.11事件からしばらく経過するまでは
何の措置も取らなかった。
② 2000年には、シェイクはISIのマームード長官と頻繁に連絡を取っていた。
FBIのローメル課長は、「シェイクは、マームードの指示で9.11の直前に
10万ドルを実行犯となったアッタに送金した」と証言している。
「シェイクは、ビンラディンの金庫番だった」と書いている英米メディアもある。
2001年10月7日に、ムシャラフ大統領はマームード長官ら3人の軍首脳を
突如として解任した。
これは、マームードがアッタに送金していたのを知ったFBIが、
パキスタンに圧力をかけたためとも言われている。
③ シェイクは、2002年の「ウォールストリート・ジャーナル紙のパール記者の誘拐・
殺害事件」の犯人として、同年2月12日にパキスタン当局に逮捕された。
しかし実は、彼は1週間前に(2月5日に)元ISIの退役准将の許に出頭していた。
だがISIは、それを警察などにいっさい知らせず、後日に説明もしなかった。
シェイクがISIに雇われていたとすれば、ISIは証拠隠滅のために一定の時間を
要したことが推測できる。
シェイクは警察の取り調べに対して、その1週間の説明を拒みつつ、
「家族を殺されたくない。自分は政府の然るべき人物と知り合いだ。」と言って、
ISIに脅されている事を匂わした。
この件については、ムシャラフ大統領はアメリカ大使に対して、「外国に引き渡す
よりも、できればシェイクは自分の手で絞め殺したい」「パール記者は首を突っ込み
すぎた」と述べている。
(2014年10月22日に作成)