赤狩りが社会を席巻する

(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)

赤狩り(共産主義者の排除)は、1940年代の末から激しくなっていった。

国務省の元高官であるアルジャー・ヒスは、ソ連のスパイとして告発された。

駆け出しの議員であるリチャード・ニクソンは、この告発で活躍して名を上げ、共和党の副大統領候補となるきっかけを掴んた。

1949年の「中国革命」と「ソ連の原爆保有」という衝撃を経て、50年代に入ると、アメリカでは『反共(共産主義の完全否定)』がもてはやされ、不寛容な世相となった。

1950年2月9日に、上院議員のジョセフ・マッカーシーは、
「アメリカの後退は国務省内にいる裏切り者のせいであり、自分は205名の共産主義職員のリストを持っている」と爆弾発言した。

そのマッカーシーを、対日強硬派の「チャイナ・ロビー」が支援して、情報を提供し始めた。

マッカーシーには、テキサスの石油成金からの寄付が集まり、共和党の指導者も同調した。

マッカーシーは、伝統的に民主党を支持するアイルランド系の人物だが、共和党に鞍替えしていた。

彼の支持層は、テキサスの石油王や没落貴族だった。

朝鮮戦争が19506月に始まると、7月にはソ連に原爆情報を流した疑いで、ローゼンバーグ夫妻が捕まった。

9月には、『国内治安法』が成立した。

(ローゼンバーグ夫妻は、53年6月に死刑が執行された)

民主党は、マッカーシーの告発を虚偽とし、「扇動しようとした」と非難した。

しかし、50年11月の中間選挙では、民主党の議員は多くが落選した。

これにより、赤狩りのムードはいっそう高まった。

こうして、アメリカのアジア外交は、反共イデオロギーに縛られて硬直化した。

親ソ派のリベラル勢力は、後退した。

そして、アメリカの発展をモデルとした、『近代化理論』が考案されて、政府は宣伝していくことになる。

ジョセフ・マッカーシーは、陸軍にまで攻撃の手を広げて、失脚していった。

彼は、共和党の中では異端だった。

1954年7月に、マッカーシーの暴走に対して弾劾決議が行われ、可決さた。

マッカーシーは、57年に飲酒のしすぎで死亡した。

(2013年10月17日に作成)


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