アイゼンハワーはNSCを多用し、
対ソ戦では核兵器と秘密工作を重視する

(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)

CIAは1952年になると、職員は1.5万人になり、秘密資金は年間500億ドルで、海外に50以上の支局を持つまでになった。

だが、ベデル・スミスCIA長官の言う事を、副長官のアレン・ダレスと秘密工作部門のトップであるフランク・ウィズナーは、無視していた。

2人は、勝手に秘密作戦を進めていた。

1952年の大統領選挙が近づく中、10月27日にベデル・スミスは、CIAの会議でこう言った。

「CIAがしっかりした人材を持つまで、作戦数は抑えるべきである」

(CIAは失敗を積み重ねてきており、ベデル・スミスは軌道修正を図ろうとしたのです)

これにフランク・ウィズナーはたちまち反論し、ベデル・スミスは敗北した。

1952年の大統領選挙では、共和党候補のアイゼンハワーが勝利した。

彼の安全保障政策の綱領は、ジョン・フォスター・ダレスが書いたものであった。

新政権は、ベデル・スミスの抗議をはねのけて、アレン・ダレスをCIA長官に任命した。

1953年3月5日に、ソ連のスターリンが亡くなった。

この時、アイゼンハワー大統領はこう憤りをぶちまけた。

「専門家と称する連中は、スターリンが死んだ時には何が起きるとか、
 あれこれ言い募ってきた。

 彼は死んだが、アメリカ政府内部のファイルをすべて見ても、
 どんな変化が生じるか分からない。」

スターリンは、世界制覇の計画を策定した事はなかったし、それを追求するだけの手段も無かった。

後継者となったフルシチョフは、こう回想している。

「スターリンは、アメリカとの戦争を恐れていた。

 アメリカとの戦争を挑発するような事はしなかった。
 自分の弱点を知っていた。」

ソ連の欠陥の1つは、日常生活のあらゆる側面が国家の安全保障に従属させられていた事である。

スターリンの外交政策は、東ヨーロッパ諸国を壮大な人間の盾にすることだった。

アイゼンハワー大統領は、核兵器と秘密工作を重視した。

NSC(国家安全保障会議)では、何時もこれらをどう活用するかが議題に上った。

NSCは、トルーマン政権はほとんど召集しなかったが、アイゼンハワーは多用した。

1953年後半にCIAは、「ソ連が大陸間弾道ミサイルを完成させるのは、1969年以前にはできないだろう」との推測を出した。

実際には、ソ連は57年には開発に成功する。

53年8月にソ連が大規模な核実験を行った際、CIAは全く予想していなかった。

アイゼンハワーは、「決断する時が迫っている。我々が直面する問題は、こちらの持てる全てを敵に一挙にぶつけるかどうかだ。」とNSCで語った。

アイゼンハワーは、ソ連に秘密工作で対処することにした。

そして、こうCIAに命じた。

「東ドイツやソ連の衛星国で、地下組織を訓練し武装させろ。

 ソ連の傀儡政権の重要人物を、排除(暗殺)しろ。」

この作戦は上手くいかず、大統領はCIAの能力の限界に気付き始めた。

1953年6月16~17日に、37万人の東ドイツの人々が、街頭に出て暴動を起こした。

暴動は、CIAの予想したよりも遥かに大規模だった。

しかし、CIAは立ち上がった人々を救うために何一つできず、蜂起はソ連軍に鎮圧された。

アイゼンハワーは、48カ国で172件の大きな秘密工作を進めていた。

彼は秘密工作に関する決定を、ダレス兄弟との私的な会議の際に下すことがしばしばだった。

アレンが作戦の提案を兄のフォスターに伝え、フォスターはそれを大統領に伝える。

フォスターは、大統領の承認と助言(ばれない様にしろ)を持ち帰り、妹のエリノア(国務省の役人)を加えた3兄弟で秘密工作を具体化した。

フォスターとアレンは、「アメリカと同盟を組まない政権は、あらゆる手段を使って打破すべきだ」と固く信じていた。

アイゼンハワーは、CIAを自分の道具にしたいと考えていた。

そのため、ベデル・スミス元CIA長官を国務次官にし、CIAをコントロールしようとした。

ベデル・スミスは自分の怒りを、ニクソン副大統領にこうぶちまけた。

「俺は、アイクの使い走りだ。

 アイクは、自分がやりたくない汚れ仕事を誰かにさせたいだけだ。
 自分は良い子になっていたいのさ。」

ベデル・スミスは、アイゼンハワーに代わって秘密工作を監督した。

大統領とNSCの秘密指令を遂行した。

ベデル・スミスが働いた19ヵ月間に、CIAの行ったクーデターが2つ成功した。

(イランとグアテマラで起こしたクーデターを指しています)

(2015年1月25日に作成)


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