U-2は完成しソ連を偵察する
EG&G、U-2の墜落事故

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

アメリカのエリア51と同じような場所が、ロシアにもあった。
それが『NⅡ-88』だ。

そこではセルゲイ・コロリョフというロケット科学者が、ある計画に取り組んでいた。
スプートニク(人口衛星)の開発である。

1956年当時、CIAがNⅡ-88について知っていたのは、大勢のドイツ人科学者が働かされている事だけだった。

CIAがNⅡ-88の存在を知ったのは55年の後半で、ソ連が元ナチスの科学者たちからすべて搾り取ったと判断して、彼らを故国に送り返し始めたからだ。

CIAは『ドラゴン・リターン作戦』と称するプログラムを始めて、ドイツに帰還した科学者たちから情報を集めた。

ところが科学者たちは一様に「何を開発しているか分からない」と言った。
ドイツ人たちは機密情報にアクセスする権限が与えられておらず、次席扱いされていたのだ。

アメリカ政府はソ連が開発しているものを推測するしかなく、開発しているのはICBM(大陸間弾道ミサイル)と見ていた。

ソ連のフルシチョフが「近い将来に我々は、世界のいかなる地点をも射程に収めた、水爆の弾頭付きのミサイルを持つ」と豪語していたからだ。

ソ連がミサイルを開発している一方で、アメリカのカーティス・ルメイ将軍は「長距離爆撃機のほうがはるかに有効である」と説いていた。

ルメイはミサイルを軽侮し、ミサイル開発に反対していた。

軍部がミサイルと爆撃機のどちらにするか決めあぐねている間も、ニューメキシコ州サンディアでは次々と核弾頭が造られていた。

1955年には、アメリカの持つ核弾頭は2280発に膨れ上がっていた。

56年になると、ルメイはソ連に対し威嚇・恫喝の行動に出た。

核兵器を搭載できるB-47爆撃機を1000機、緊急発進させてソ連に向かわせたのだ。

アメリカとグリーンランドの空軍基地から飛び立った爆撃機は、北極を突っ切ってソ連国境すれすれまで進み、そこでUターンして帰還した。

ソ連にとっては怖ろしい経験だったろう。Uターンするとは知る由もなかったのだから。

ルメイの挑発はそれでは終わらず、56年3月21日には、『ホームラン作戦』の一環として、B-47の改良機をシベリアのツンドラ地帯に侵入させた。

狙いは電子情報の収集で、わざとソ連のレーダーに追いかけさせて、電磁波伝搬を入手した。

こうした危険な作戦について、ルメイは後にこう言っている。

「もう少し運が良けりゃ、第三次世界大戦が始まってたかもしれんな」

この電子情報収集の作戦は、5月10日にかけて156回も敢行された。

何機もの飛行機が撃墜された。

ホームラン作戦が続くにつれ、CIAはこの作戦が国家安全保障上の脅威になっていると憂慮した。
「ソ連指導部が本当に攻撃してくると思い込んでしまうかもしれない」と。

そこでCIAは、アイゼンハワー大統領に訴えた。
「U-2ならば低いリスクで重要情報を大量に入手できる」と。

だが大統領は迷った。「もし1機でも撃ち落とされたら、核戦争のきっかけになり得る」

それを見てCIA幹部のリチャード・ビッセルは、「U-2は撃墜される事も探知される事もない」と請け合った。

U-2プロジェクトでは、ワシントンDCのHストリート1717番地にCIAの事務所があり、そこが『プロジェクト・アクアトーン』(U-2開発のプロジェクト)の司令部になっていた。

56年7月3日にそこから、ビッセルは西ドイツのヴィースバーデンにあるU-2の秘密基地に電話し、「作戦を実行せよ」と命じた。

現地ではパイロットのハーヴィ・ストックマンが準備して待っていた。

翌日の朝、アメリカの独立記念日の日に、彼の乗ったU-2は初めてソ連に侵入した。

U-2は高性能のカメラを装着していたが、その精度を検証するため、ビッセルはエリア51からはるばるペンシルヴァニアのアイゼンハワー大統領の農園まで飛ばしたことがあった。

その時には、2万mの高さから、アイゼンハワーの家の雌牛が桶から水を飲んでいる様をくっきり撮影できた。

ストックマンは言う。

「レニングラードに着いたら、カメラを作動させることになっていた。

そこの飛行場に長距離爆撃機があると、アメリカ政府は思っていたんだ。

だけど爆撃機は1機もなかった。」

当時よく言われていた「爆撃機の実力差(ソ連のほうが多く所有しているというアメリカ政府の言い分)」は、誤りだと判明した。

CIA幹部のハーバート・ミラーは、覚書にこう記している。

「カメラは、知られていなかった空港やコンビナートを見つけた。

5つの基地で戦闘機が並んでいるのを見つけたが、対空砲の砲身はどれも水平状態で、砲身を上に向けた発射準備完了の恰好ではなかった。」

ストックマンは言う。

「写真を見て分かったのは、彼らも同じ人間で、普通の暮らしをしている事だった。

鉄のカーテンの向こうにあったのは、農地や農園といった日常の暮らしだった。」

ストックマンの飛行は、CIAを有頂天にさせたが、米ソ関係をとことん悪化させた。

ビッセルは「探知されない」と請け合っていたが、実のところU-2はソ連の防空システムのレーダーに追跡されていた。

U-2が撮った写真の分析官は、「ソ連は20回以上にわたって迎撃を試みていた」と断じた。

分析官ディノ・ブルジオニは、U-2計画が1998年に機密解除された後、こう語った。

「ミグ17とミグ19が必死にU-2を追ったが、結局は高度を下げなければならなかったんだ。」

ソ連のミグ戦闘機は、U-2の高度まで行けなかった。

それに地対空ミサイルも、U-2の高度に届かなかった。

フルシチョフはU-2の侵入に激怒したが、それを公にするとソ連がU-2に対処できなかった事が明るみに出るので、沈黙を選んだ。

アイゼンハワーはソ連との関係悪化を危惧し、CIAに対し「指示があるまでソ連への飛行は中止しろ」と命じた。

ビッセルは驚き、ソ連がU-2を撃墜する可能性を分析させた。

すると「18ヵ月以内にソ連の地対空ミサイルは、U-2の飛行高度21000mに到達する」との結論だった。

ビッセルはU-2計画を継続させるために、レーダーを吸収する塗料を発明しようと考えた。

それをU-2の設計をしたケリー・ジョンソンに伝えると、「塗料の重みが加わったら、飛行可能な高度が450mは低くなる」と反対された。

そこで今度は大統領の科学顧問ジェームズ・キリアンを訪ね、塗料の開発をする科学者チームを作るよう要請した。

集められた科学者たちは、『ボストン・グループ』と呼ばれた。

1956年の夏になると、ビッセルはルメイ将軍に悩まされた。

ルメイはU-2にいたく感心し、自分の管理下に置こうとしたのだ。

空軍は『プロジェクト・ドラゴンレディ』という計画の下、空軍専用機として31機のU-2を発注した。

この計画は議会には伏せられ、空軍は費用をCIA経由で支払った。
そのためビッセルは、空軍とロッキード社の仲介役を務める破目にになった。

空軍がU-2用のパイロットとして雇った者に、アンソニー・ペヴァクアがいた。

ペヴァクアはエリア51に来るまでは、フランシス・ゲイリー・パワーズと一緒にジョージア州のターナー空軍基地にいた。

ペヴァクアが契約書にサインすると、まずコネチカット州ニューヘイヴンにある『バーガー・ブラザーズ・カンパニー』に行かされた。

その会社は、表向きは女性用の下着を製造していたが、裏では軍のためのパラシュートを作っていた。
後に『デイヴッド・クラーク・カンパニー』と改名している。

ペヴァクアはここで、高高度用の飛行服を試着し、自分用の服を仕立てた。

その後、彼はライト・パターソン空軍基地で様々な危険をともなう身体テストを受けた。

このテストをした基地の航空医学研究所は、元ナチスの医師たちによって運営されたいた。

1980年にジャーナリストのリンダ・ハントは、アメリカ航空医学界の重鎮には元ナチスでかつて強制収容所でユダヤ人やポーランド人やロマ人に人体実験をした者が含まれていると暴露した。

彼らは残酷な人体実験をして、航空医学のデータを得ていた。

それをアメリカ軍の下でも行っていたのだ。

こうしたドイツ人科学者に関する文書を、アメリカ政府は1999年に12万6千ページ分を公開したが、6億ページを超える文書がいまだ機密扱いのままだ。

ペヴァクアらはエリア51でU-2の訓練を始めたが、U-2でどこに向かう事になるのかは聞かされなかった。

U-2が撃ち落とされたら、パイロットは必ず尋問される。だからパイロットは何も知らないほうが好都合なのだ。

『ボストン・グループ』は、1957年の冬にはレーダー吸収の塗料を完成させた。

ビッセルはそれをロッキード社に渡したが、レーダー反射の計測は『EG&G』に依頼した。

『EG&G』は1947年に創業されたが、機密扱いの会社で世間に知られなかった。

元々は「エドガートン、ジャーメスハウゼン&グリア」という社名で、MITの教授3人がおこした技術会社だ。

1927年にハロルド・エドガートンは、静止画像写真(ハイスピードカメラ)を考案した。

この写真は、リンゴを貫通する弾丸、撥ね上がる水滴をとらえたもの等が有名だ。

第二次大戦中に、EG&Gは初めて軍事関連の契約をとりつけた。

エドガートンが考案したストロボとフラッシュバルブが採用されたのだ。

この技術は、夜間に空から地面を照らすのに使われ、旧来の閃光装置にとってかわった。

一方ケネス・ジャーメスハウゼンは、高エネルギーパルス理論の研究をしており、レーダー関係など50以上の特許を取得している。

彼はハーバート・グリアと共に、原爆の点火システムの開発にも携わった。

マンハッタン計画(原爆開発の計画)の契約がEG&Gに回ってきたのは、彼らがヴァネヴァー・ブッシュと近しかったからだ。

ブッシュはMITの元工学部長で、マンハッタン計画を取り仕切った。

EG&Gは、核兵器の点火システム開発に加えて、実験場で核爆発を写真に収める仕事も請け負っていた。

そして写真を見て爆弾の威力も算定していた。

1960年代に入り核実験で生じた放射性廃棄物を処理するチームが必要になった時も、契約はEG&Gが取りつけた。

EG&Gは別方面も手掛けており、1950年代の初期にはエリア51の南50kmにあるインディアン・スプリングスでレーダーの試験もしていた。

ビッセルに懇願されて、EG&Gは1957年には『ダーティ・バード計画』の一環として、レーダー反射の計測を行う施設をエリア51の隣りに建設した。

1998年に機密解除されたCIA文書によれば、グルーム湖のすぐ先に設けられて、57年4月にU-2(ダーティ・バード)をレーダーで追跡した。

レーダーを反射する塗装がされたU-2を、実験としてレーダー追跡したのだ。

そのU-2は突然にオーバーヒートし、墜落した。

ボストン・グループの塗料のせいだった。塗料による重量オーバーが原因だった。
テストパイロットのロバート・シーカーは死亡した。

この墜落事故はマスメディアの注目を集め、U-2を天候調査機とする作り話は通用しなくなった。

ビッセルはこの事件後、新しい偵察機の開発・製造をアイゼンハワー大統領にもちかけた。

ちょうどこの時期、1957年10月4日に、ソ連は世界初の人口衛星(スプートニク1号)の打ち上げに成功した。

これはセルゲイ・コロリョフがNⅡ-88で開発してきたものだ。

翌日のニューヨーク・タイムズは、こう見出しを掲げた。

「ソ連が人工衛星を発射 地球を周回中でアメリカ上空を4回通過」

U-2開発を全く知らないアメリカの一般国民は、ソ連がアメリカを偵察できるのにアメリカは何もできないと思った。

スプートニク1号は21日間地球を回り、その後に通信が途絶えた。

アイゼンハワーは、科学顧問のジェームズ・キリアンに相談した。

その結果、スプートニク事件の翌月にキリアンは大統領の科学技術担当の特別補佐官となり、毎日大統領と会うようになった。

キリアンとビッセルは10年来の友人で、キリアンの助力で新型偵察機の開発に予算と人を際限なく使えることとなった。

(2019年2月7~9日に作成)


『アメリカ史 1950年代』 目次に戻る

『アメリカ史』 トップページに行く

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く