(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
ジョンソン大統領は、「ユダヤ人の友人」であり続け、イスラエル寄りでした。
1965〜66年には、戦車とスカイホーク爆撃機を、初めてイスラエルに輸出しました。
1967年に第三次中東戦争が起きた時には、ベトナム戦争と国内問題に忙殺されていたため、傍観者にならざるを得なかった。
1967年までにジョンソンとマクナマラ国防長官は、「米ソの軍拡競争は、危険すぎる」と心配し始めます。
1967年にマクナマラは、「軍拡をせずに、その金を紛争地の貧困解消に使おう」とソ連に懇請しました。
米ソの首脳会談が行われ、『核兵器の拡散防止条約(NPT)』が生まれた。
68年には、この条約には57の国が署名しました。
ジョンソンは、68年にモスクワを訪問する計画を立て、さらなる歩み寄りをしようとします。
しかし68年8月に、ソ連はチェコスロバキアに侵攻します。
ソ連の指導者ブレジネフは、軍隊を使って「プラハの春」を粉砕する事を、『ブレジネフ・ドクトリン』で正当化しました。
『ブレジネフ・ドクトリン』とは、「共産主義がすでに確立した所では、その政府を守るためにソ連が軍事力を行使するのは正しい」とするものです。
ソ連のこの態度により、ジョンソンのモスクワ訪問は中止となり、米ソの軍拡は速度を増しました。
(2014.4.25.作成)