(世界歴史大系 アメリカ史2から抜粋)
ジョンソン政権では、ニューディール期以来と言われる、多数の改革法が成立します。
ケネディが想起しながら実現できなかった法案の多くは、議会に強いジョンソンによって実現したのです。
1964年11月の総選挙では、上下院ともにリベラル派が多数当選し、65〜66年の議会は1935年以来で最も改革的となりました。
ジョンソンは様々な改革立法をし、69%を成立させるという驚異的な結果を出した。
トルーマンが果たせなかった『老人健康保険制度』や、ケネディが果たせなかった『教育施設への大幅な補助金の支出』を成立させた。
「大気清浄法」などの『環境保護法』も成立させた。
これらの改革は、好況にも助けられていた。
ケネディの高度経済成長の政策によって好況となり、貧困層が減少していたのです。
65年2月には、「州が黒人の有権者登録を受理しない場合、政府が介入して受理させる」という、『投票権法案』を提出します。
『投票権法』は、8月に成立しました。
この法により、南部の黒人の登録が急速に進み、政治地図は激変しました。
ここにおいて人種隔離制は、体勢として一掃されました。
(この後、保守層の巻き返しにより、レーガン政権の時から機会の不平等や人種隔離は
再び深刻化します)
1965年10月3日には、『移民法』も成立します。
これにより、移民の受け入れ枠を「東半球から17万人、西半球から12万人」にして、
アジアやラテンアメリカからの移民を急増させました。
ジョンソンは、それまでの国別の移民割り当て制度について、「WASP国家を保持するための差別法だ」と明言していました。
(2014.4.25.作成)