(世界歴史大系 アメリカ史2から抜粋)
ケネディ大統領は、ハーバード大学を中心とする学者グループを起用した。
赤狩り時代に孤立していた知識層は、権力の中枢に復帰しました。
ケネディは、財界や法曹界とのパイプが細かった。
しかし彼らの助言で、国防長官にはマクナマラを、国務長官にはロックフェラー財団のラスクを起用しました。
就任後の2ヵ月間に、32もの教書を出しました。
しかし全ては実現せず、大型減税は後継のジョンソン政権が実現しました。
1962年に新しい通商拡大法を成立させ、GATTにおいての関税引き下げ交渉を獲得しました。
61年3月の教書では、「国防は、あらゆる戦争に対処する、柔軟対応の戦略をする」と表明します。
「前政権の戦略が通常兵器の拡充を軽視した結果、地域紛争への対応能力を弱めた」との批判に基づいていました。
1961年の軍事費は、15%も拡大しました。
宇宙開発では『アポロ計画』をスタートさせ、62年2月にはアメリカ初の有人宇宙飛行を成功させました。
ケネディ政権も、共産主義には力で対決しました。
それは、ブレーンたちがマッカーシズム期に苦渋を味わっていたため、「容共的」と見られるのを恐れていたためであった。
ベトナムにおいても、60年12月に『解放民族戦線』(これは南ベトナムにおける共産主義革命を掲げる組織です)が結成されると、
61年春には隠密裏に兵を派遣し、その数は63年6月には1.2万人に拡大しました。
これにより、ベトナムへの本格的な介入の道が開かれた。
(2014.1.22)
(アメリカの時代 ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
1961年に、ロックフェラー家(中心はネルソン・ロックフェラー)が資金援助した委員会は、『アメリカの未来』を発行します。
ここでは、「ソ連が優位になっているミサイル配備を改善するために、早急な軍備増強が必要だ。新興国に対しては、ソ連よりも援助をすることだ。」と説いていた。
このロックフェラー報告を仕上げたのは、ハーバード大の教授だったヘンリー・キッシンジャーです。
この報告書には、ディーン・ラスクなどの民主党員も署名していた。
ケネディが大統領に就任した時は、世論は反共を強く支持していました。
ケネディは反共でいく事を決め、超保守派のエドガー・フーバーをFBI長官に留任し、
アレン・ダレスをCIA長官に留任した。
そして、ディーン・ラスクを国務長官にしました。
ラスクは、ロックフェラー財団の会長を務めていた人物で、徹底した反共で知られていた。
ラスクは1951年の演説で、「毛沢東の中国は、ソ連の植民地政府である」とまで言っていました。
ケネディは、マクジョージ・バンディをNSCのトップにし、バンディはNSCの役割を変えてもう1つの国務省にしました。
そして、秘密のうちに動ける機関にした。
国防長官には、ロバート・マクナマラを任命します。
マクナマラは共和党員で、フォード社の社長でした。
マクナマラは、主要な大学から人材を引き抜き、軍事技術を開発させた。
財務長官には、ダグラス・ディロンを任命します。
ディロンは共和党員で、有力な投資銀行の頭取でした。
1962年に、革新的な貿易法が成立します。
これにより大統領は、アメリカ製品を多く受け入れてくれる国々には、関税を50%削減する権限を持つことになった。
そして、「ケネディ・ラウンド」と呼ばれる貿易協議(GATTの交渉)が行われました。
ケネディ政権は、海外へ武器を売って儲けるための機関を、国防省に設けました。
政府自らが武器を売る手助けをし、ジェネラル・ダイナミックやロッキードといった軍需会社は、毎年10億ドルもの武器を外国に売ることになります。
キッシンジャーは後に、「ケネディ時代は、新しい時代の始まりではなく、むしろ前の時代の最後に打ち上げられた花火だった」と言っています。
ケネディが大統領だった1961〜63年は、アメリカ国民の「国力と大統領への信頼」が頂点にあった時期でした。
この信頼は、燃え尽きる前の輝く星に似ていたのです。
(ケネディの死後に、ケネディも推進していたベトナム派兵・ベトナム戦争がどんどん
拡大し、やがてはニクソン・ショック=ドル本位制の崩壊にまで到達します)
○ 村本尚立のコメント
ケネディは、未だに人気があり、「彼が死ななかったら、世界はもっと平和になっていた」と言われたりします。
しかし、私が勉強した限りでは、これは幻想です。
ケネディは、決して平和を志向した人物ではありません。
同時代にキング牧師やマルコムXがいて、彼らが公民権運動で奮闘したので、この時代には
良い政治が行われていたようなイメージがあるだけです。
ケネディは、公衆の面前で暗殺されたため、実像よりも大幅に美化されています。