キューバ危機
核戦争の一歩手前までいく
アメリカのフライングだった可能性が高い

(アメリカの時代 ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)

1961年にソ連のフルシチョフは、「西ベルリンは東ドイツに返されるべきだ」と言い出します。

ケネディ大統領は、この問題では譲歩しない決心をしていました。

1961年6月に、米ソの首脳会談が行われます。

しかし、冷たい会談として終わりました。

ケネディは「米ソの力の均衡を崩してはならない」と言ったが、
フルシチョフは「民族解放の戦いを支持し続ける」と言ったのです。

ケネディは61年の中頃には、『軍事力では、アメリカが圧倒的に有利な状況であること』を知っていました。

アメリカのサモスU号スパイ衛星が、ソ連は14基の大陸間弾道弾(ICBM)しか持っていないことを、明らかにしたのです。

それでもケネディは、フルシチョフが「ベルリン問題で行動を起こす」と発言すると、
予備役兵を召集し、議会に緊急軍事費30億ドルを求めた。

1960年には460億ドルだった軍事費は、1963年末には540億ドルになります。

フルシチョフは、1961年8月13日に、ベルリンの壁の建設を始めます。

そして、米ソの軍拡は加速します。

NSCの補佐官だったマクジョージ・バンディは、

「もしソ連との戦争になったら、現在の計画では、最初の一撃でアメリカのすべての核兵器を
 発射する事になっています」

 とケネディに伝えました。

ケネディは、核兵器1本やりの計画を捨て、ポール・ニッツの助言を入れて、通常兵器の増強をする事にします。

しかしその一方で、ICBMを中心とした核弾頭も増やし続けた。

1962年には、ケネディも国防総省も、「アメリカが軍事的に優位にある」と十分に認識していました。

そのため彼らは、「先制攻撃を仕掛けること」を公に論じるようになります。

驚いたソ連は、61年9月から行っていた核実験の停止をやめて、核実験を再開しました。

これを見たアメリカは、「核実験の再開を見合わせてほしい」とイギリスから懇願されたのも無視して、核実験を再開した。

フルシチョフはアメリカの挑発に苛立ち、「アメリカはソ連の周りに沢山の軍事基地を持っているのに、我々はアメリカの周りに全く持っていない」と、危機感をつのらせます。

1962年1月にアメリカは、キューバを米州機構(OAS)から追放し、経済封鎖を始めます。

そのためキューバのカストロは、フルシチョフ(ソ連)に近づいていきます。

ソ連製のミサイルがキューバに運び込まれ、62年10月14日にアメリカのU−2型飛行機(偵察機)がそれを写真に撮りました。

ケネディは、政府高官たちの特別グループ(最高執行会議)を組織して、この事態に対処する政策を練らせます。

この会議では、『海軍によるキューバの海上封鎖をすること』で一致しました。

10月22日にケネディはTV演説で、「アメリカ海軍によるキューバの隔離」を宣言します。

そして、「ミサイルを撤去しろ。もしアメリカが攻撃されたら、ソ連に報復攻撃をする」と警告しました。

アメリカは最大級の警戒態勢に入り、核爆弾を積んだB−52が常時に空中待機します。

陸軍も、キューバ侵攻の態勢を整えます。

これを見てもフルシチョフは、ソ連軍を警戒態勢につかせなかった。

フルシチョフは10月26日に、「キューバに絶対に侵攻しないと誓えば、ミサイルを撤去してもよい」とアメリカに示唆します。

これを見たディーン・アチソンは、「ソ連は恐れているから、アメリカは要求を引き上げるべきだ」と主張しました。

27日になると、ソ連は「キューバのミサイルを撤去するから、代わりにトルコにあるジュピター・ミサイルを撤去しろ」と要求します。

ケネディはすでに、古くなっていたジュピター・ミサイルの撤去を、数ヶ月前に決めていました。
(それをソ連は知らなかった)

27日のアメリカ政府の最高執行会議は、激論となります。

そして、「キューバ攻撃を実施するべきだ」と結論しました。

会議に参加していたマクナマラ国防長官は、「核戦争になり、ミサイル1発で100〜200万人が死ぬことになると思った」と、後に語っています。

ケネディは、弟のロバートの案を最終的に採用します。

そして、「キューバに侵攻しないし、ジュピター・ミサイルを撤去するから、キューバから
ミサイルを撤去してくれ」と、ソ連に伝えました。

28日にフルシチョフは取引に応じ、核戦争の危機は去ったのです。

後に明らかになったのですが、『キューバのミサイルには、核弾頭は付けられていなかった』といいます。

フルシチョフらは、アメリカの態度にひどく困惑していました。

この事実は、当時のアメリカ政府は知らなかった。

ケネディは、実際には存在しなかった核弾頭に対して、攻撃を仕掛けようとしていたのです。

(世界歴史大系 アメリカ史2から抜粋)

1961年6月に、ケネディ大統領とソ連トップのフルシチョフは会談します。

最大の争点は『ベルリン問題』でしたが、両者は共に妥協せず、会談後には軍拡が進みました。

さらに、東ベルリンから西ベルリンへの難民(亡命者)が増えていたので、ソ連・東ドイツは61年8月から、ベルリンの壁の建設を強行しました。

米ソの緊張は、62年10月のキューバのミサイル危機で頂点に達します。

アメリカはキューバを敵視したので、元来は共産主義者ではなく民族主義者だった
カストロ政府はソ連に傾斜しました。

そして、ソ連の提案する「ミサイル基地の建設」を受けいれた。

この動きはすぐにアメリカに分かり、10月22日にはケネディは海上封鎖を発表します。

米ソの核戦争の危機が高まりました。

28日にフルシチョフは、「アメリカのキューバへの不干渉を条件として、ミサイルを撤去する」と発表し、核戦争は回避されました。

(2014.1.22.作成)


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