共産主義の拡大を防ぐという名目で、ベトナムにも介入する

(アメリカの時代 ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)

南ベトナムでは、1960年に人民解放軍(ベトコン)が組織され、中国はホーチミン・ルートを通じて、ベトコンを支援します。

ケネディ大統領は、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権を支援するために、1961年4月に新たに500人の軍事顧問をベトナムに送り込みます。

ケネディは、新しい特殊部隊である「グリーン・ベレー」に期待していました。

グリーン・ベレーは、ベトナムのような場所でゲリラと戦うために、彼自身が組織したものです。

彼は、自ら戦闘服のデザインにまで注意を払いました。

グリーン・ベレーの派遣により、ケネディはジュネーブ協定を破りました。

この協定では、「南ベトナムには、685人以上の軍事顧問を置いてはならない」と定められていました。

(アメリカは、すでに何百人も送り込んでいたのです)

ケネディは、副大統領のジョンソンをベトナムに派遣して、状況を調べさせます。

ジョンソンは、「ジェムは、今日のチャーチルである」と公言していました。

アメリカは「正規兵をベトナムに送りたい」と伝えたが、ジェムは拒否しました。

アメリカはジェムの意向を無視する事にし、ケネディは軍部からの「4万人の部隊を送りたい」という要請は断ったが、1万人を62〜63年にかけて送り込みます。

軍事援助も、18500万ドルと、3倍に増額しました。

しかし情勢は変わらず、アメリカ兵の犠牲者が増えるにしたがって、メディアが注意を払い出します。

ケネディと軍部は、報道を規制するためにホワイトハウスから政府に批判的な記者を追い出そうとしましたが、ほとんど成功しなかった。

ケネディは、「ソ連と決別した中国は、東南アジアを支配することで米ソに恥辱を与えようとしている」と信じていました。

彼はテレビ番組で、「中国が東南アジアを支配しようとしている。だから、ベトナムから撤退するべきではない」と述べました。

1963年に入ると南ベトナムでは、反政府デモをしたとして、仏僧へ政府軍が発砲します。

そのため、僧侶たちは抗議の焼身自殺をしました。

これをジェムの義理の妹であるヌー夫人が、「バーベキュー・ショー」と形容したため、
アメリカ国民はショックを受けました。

南ベトナムの将校たちがクーデターを計画すると、ジェムを見限っていたアメリカはそれを認めるサインを送り、クーデターが63年11月1日に実行されます。

ジェムと弟のゴ・ディン・ヌーは捕えられ、処刑されました。

(ヌー夫人は国外にいた)

この3週間後に、ケネディはダラス市で暗殺されます。

(2014.3.23.作成)


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