(アメリカの時代 ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
キューバ危機は、ソ連に「アメリカに2度と同じ事はさせない」と決心させて、
ソ連は大規模な軍備増強に入ります。
そして、10年もしないうちにアメリカに匹敵する核戦力を持つようになりました。
危機の責任を追及されてフルシチョフは1964年10月に失脚し、ブレジネフとコスイギンらが政権を握りました。
ブレジネフ一派は保守的で、軍事費を大幅に引き上げました。
西ヨーロッパ諸国は、「自分たちに相談もなく、核戦争の瀬戸際に置かれた」と不満を持ちます。
フランスのドゴール大統領は、核兵器の開発に乗り出すことを決め、「1966年までにNATOから脱退する」と発表します。
そして63年初めには、イギリスが求めたヨーロッパ共同市場への加盟を、拒絶しました。
ドゴールに言わせると、「イギリスはアメリカの先兵であり、イギリスの加入を認めると、
共同市場がアメリカに占拠される」のであった。
こうしてケネディの時代に、西ヨーロッパの結束はずっと弱いものになってしまった。
このフランスの動きが、1963年にアメリカのベトナム介入を生む事になります。
アメリカは、同盟国に協力姿勢を見せることで、自分の影響下に置こうとしたのです。
(ベトナムはフランスの植民地だった所で、フランスは傀儡政権を誕生させていた。
そして、反フランスの勢力と戦っていました。)
キューバ危機の後には、米ソの緊張は際立って改善されました。
米ソは、核戦争の瀬戸際でやりとりする恐ろしさを味わい、「危機は避けなければならない」と考えたのです。
1963年8月に、両国は初めて軍備管理の協定に署名します。
そして、大気圏内での核実験の停止が決まりました。
だが、地下での実験は続けられていきます。
ケネディがこの協定を結ぶには、ペンタゴンやCIAや上院の反対派と戦わなくてはならなかった。
アメリカには、共産主義者とは一切の取引を拒む勢力がいました。
キューバ危機の後に、ケネディは極秘のうちにカストロと交渉をし始めます。
カストロも応じて、両者が話し合いのための条件を出し始めた時に、ケネディの暗殺が起きてしまいました。
(2014.4.2.作成)
(世界歴史大系 アメリカ史2から抜粋)
キューバ危機の後は、米ソには歩み寄りのムードが高まっていきました。
1963年6月には、米ソの首脳間に「ホットライン」と呼ばれる通信回線を開設する協定が成立します。
63年8月5日には、米英ソの3国は、地下以外での核実験の停止で合意します。
これに対し中国は、「アメリカに妥協した」としてソ連を非難し、中ソの対立は決定的となりました。
(2014.1.22.作成)