ゴルバチョフは米ソの大幅な核軍縮を提案する
だがレーガンは応じなかった

(オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ3から抜粋)

レーガン政権の挑発により米ソの緊張は高まっていたが、1985年3月に歴史を変える転機が訪れた。

ソ連の最高指導者のチェルネンコが死去し、ゴルバチョフが後を継いだのだ。

ゴルバチョフは、高官となってからは積極的に西側諸国を訪れており、
「社会民主主義を復権させて、ソ連国民の生活水準を向上させたい」と考えていた。

彼は、『軍事費が膨張している限り、自分の願いは実現しない』と知っていた。

彼は後に、「軍事費だけは潤沢で、他の部門はすべて干上がっていた」と書いている。

「 軍需工場は最新の設備なのに、農業ではあらゆる設備が旧式のままだった。

  だが、問題を分析するのは不可能だった。
  軍需産業に関わるデータはすべて機密扱いになっていて、共産党幹部の者でも
  入手できなかったからだ。」 とも書いている。

ゴルバチョフは大統領になった時、「軍事セクターが経済に占める割合は、20%だ」と概算していた。

軍事に関係する省庁は9つあったが、名前からは仕事が分からない省庁もあった。

例えば、核開発を扱う省庁は、「中型機械製作省」になっていた。

アメリカNSAのウィリアム・オドム長官は、「ソ連では、国家予算の20〜40%が軍事に費やされている」と分析していた。

この状況を変えるには、まず軍拡競争を終わらせる必要があった。

そして、アフガニスタンでの戦争を終わらせる必要もあった。

当然ながら、軍事セクターからの反発が予想された。

ゴルバチョフは、85年3月24日に、レーガンに手紙を書いた。

「 我々の国は、社会制度もイデオロギーも異なっています。

  しかし、それが憎しみ合う理由となってはならない。

  競争するにしても、平和的な競争であるべきです。

  すべての人には、自ら選んだ道を行く権利があります。 」

レーガンは、「スターウォーズ計画」と呼ばれる戦略防衛構想『SDI』を進めようとしていた。

この構想は、完成したとしてもソ連が数千発のミサイルを一度に発射すれば役に立たない。

つまり、いざ核戦争になればアメリカを守れない。

その事を、ゴルバチョフはよく理解していた。

そして、「SDIの真の目的は、防衛ではなく先制攻撃にある」と考えた。

先制攻撃した後の限定的な報復に対してならば、システムは機能するからだ。

ゴルバチョフは手紙の中で、「スターウォーズ計画は、国際秩序の安定を大きく損なっています。この危険な計画は、停止するするように進言します。」と書いた。

85年10月にゴルバチョフは、ワルシャワ条約機構の指導者たちとの会合でこう言った。

「 彼らは、軍事的な脅威で社会主義を打ち負かそうとしている。

  SDIは、自身の同盟国に対して優位を確立する意味もある。 」

意見の相違はあったが、ゴルバチョフとレーガンは1985年11月に会談を行った。

会談後もゴルバチョフは、「レーガンは軍産複合体のスポークスマンなのではないか」との疑念を残していた。

ゴルバチョフ政権は、軍縮とデタントおよび民主化を、心から望んでいた。

外交政策アドバイザーだったアナトリー・チェルニャエフは、こう証言する。

「 デタントは我々の方針だった。 切望していたと言っていい。

  保守派のエゴール・リガチョフでさえ、『軍需産業が経済を食い潰しているんだ。
  いつになったら子供達に満足な物を食べさせられるんだ?』と言っていた。 」

ゴルバチョフは、86年1月のレーガンへの手紙で、大胆な提案をした。

『20世紀中に、世界中から核兵器を一掃するための計画』である。

彼は、次の提案をした。

「暫定措置として、米ソがヨーロッパから中距離の弾道ミサイルをすべて撤去する」

「核実験を停止する」 「戦略核兵器を大幅に削減する」

「ABM条約を改正して、アメリカのSDI研究を認める代わりに、SDIシステムの配備を
 15年間禁止する」

ソ連はすでに前年8月には、一方的に核実験の停止を宣言していた。

ところがレーガン政権は、新たな核実験の計画を発表した。

1986年4月26日に、ウクライナのチェルノブイリ原発で大事故が起きた。

これを機に、ゴルバチョフはさらに核廃絶の意志を固めた。

西ヨーロッパにも放射性粒子が降り注ぎ、原発事故と核戦争の危険さを皆に痛感させた。

この事故により、ソ連が混迷し衰退している事が、外からも見えた。

同年5月に、シュルツ国務長官はレーガンに進言した。

「 ソ連が弱っているこの時機をとらえて、核軍縮を進めるべきです。

  我々は勝利を収めつつあります。
  実際に、ソ連がアメリカを上回っているのは、弾道ミサイルに関してだけです。

  従って、(ソ連の提案している)弾道ミサイルの削減は、アメリカの国益に
  適います。 」

レーガンとゴルバチョフは、86年10月に再び会談した。

ゴルバチョフは、軍縮に向けて驚くべき提案をした。

この時のことを、彼はこう回想する。

「 レーガンは、カードに書かれたメモを見ながら、私に返事をした。

  私は彼と議論をしようとしたが、ことごとく失敗に終わった。

  質問をぶつけても、何も答えは返ってこず、ただメモを見つめているだけだ。

  やがて彼は、カードを繰り始めた。
  適切な答えが書かれているメモを探している様だった。

  だが、見つかるはずはない。
  レーガンと周囲の人たちは、まったく違った会話を予想して備えていた。 」

(※レーガンは極めて知的レベルの低い人物だったため、誰かと会話する時はスタッフが
 答弁を書いたカードを用意していました)

ゴルバチョフはこの時、次のことを提案した。

「戦略核兵器を半分に減らすこと」

「イギリスとフランスには従来の武力の維持を認めた上で、米ソがヨーロッパに配備している
 中距離の弾道ミサイルをすべて撤去すること」

「短距離ミサイルの増強を凍結すること」

「核実験の停止」

これに加えて、「アメリカが望むなら、ソ連の現地査察を認めてもよい。SDIについては、
研究室内での実験は10年間は認める。」と提案した。

レーガンは、提案の重大さをすぐには理解できず、ゴルバチョフを失望させた。

レーガンは会談後、アドバイザーたちと話をした。

アドバイザーの1人だったポール・ニッツェは、「過去25年で我々が受けた提案の中で、
最高のものだった」と回想する。

会談は、さらに続けられた。

レーガンは、提案の一部は受け入れたが、SDIには固執して譲ろうとしなかった。

レーガンは、「SDIがもし実現したら、ソ連と共有してもよい」と提案した。

ゴルバチョフは怒りだし、こう言った。

「 SDIを共有するなど、真に受けることはとても出来ません。
  石油や工作機械についてすら、共有していないじゃないですか。

  もしSDIを共有したら、アメリカで革命が起きかねない。

  頼みますから、もっと現実的に話をしましょう。 」

会談に参加したケネス・アデルマンは、こう話す。

「 軍縮の量について、次々に決まっていった。 驚異の進捗だった。

  それ以前の5年間の何百もの交渉よりも、一晩で大きく進展した。 」

ソ連側は、「これだけ譲ったのだから、アメリカもSDIで妥協してほしい」と迫った。

レーガンは、交渉チームの中で最も保守的なリチャード・パールに相談した。

軍縮でソ連の経済力が復活するのを恐れていたパールは、「SDIで妥協してはいけません」と答えた。

レーガンは次に、シュルツとニッツェに相談したが、2人は「ゴルバチョフの提案を受け入れましょう」と促した。

レーガンはパールの意見を採り、「SDIの大気圏内での実験を行う権利は欲しい」と主張した。

これに対して、ゴルバチョフは最後の訴えをした。

「 ソ連は大きな譲歩をしています。
  これを受け入れれば、あなたは偉大な大統領になれるでしょう。

  受け入れてもらえなければ、これで物別れです。

  アメリカ国民はきっと理解し、あなたを支持してくれると思います。

  核兵器の大幅削減を成し遂げれば、世界の人民の大多数は支持します。

  アメリカ側は今のところ、基本的にいっさい譲歩をしていません。

  それでは合意は難しいと言わざるを得ません。 」

レーガンは、「SDIについて研究室内での実験に限ると決めると、自分の国内での立場が危うくなる」と言った。

これに対しゴルバチョフは、「アメリカが軍拡を宇宙にまで広げて、SDIが実現してしまったなら、それを許した私は後世に愚かで無責任だと思われる。」と返した。

首脳会談は終わり、交渉は失敗に終わった。

ネオコンのパールの言葉を信じたレーガンは、スターウォーズ計画のために全人類の希望(核軍縮)を犠牲にしたのだ。

スターウォーズ計画は、当時は研究室内ですらほとんど始められていなかったのに。

ゴルバチョフは、アメリカの強情さにひどく失望した。

彼はこう話している。

「レーガンは、極めて原始的な男だ。近視眼的にしか物を見られず、知的には無能に近い。」

アメリカは、「このまま軍拡競争を続ければ、ソ連は疲弊していく」と見たのではないだろうか。

軍縮によって復興しようとしたソ連の計画を、アメリカは拒否することで妨害したとも取れる。

「それがアメリカの狙いか」とゴルバチョフは考えた。

(2016.1.24.)


アメリカ史 1980年代 目次に戻る