(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ3』から抜粋)
ロナルド・レーガンは、地味な俳優からスタートし、その後にテレビ番組「ゼネラル・エレクトリック・シアター」の司会などを経て、1967~75年にはカリフォルニア州知事を務めた。
公には家族の大切さを訴えていたが、自身は子供たちと疎遠であり、アメリカ史上唯一の離婚歴を持つ大統領だった。
レーガン政権で副大統領をした父ブッシュは、「レーガンの国際関係に関する考え方は、想像を絶するほどのものだった」と述べている。
レーガン政権でNSCのソ連・東欧問題顧問を務めたリチャード・パイプスは、「NSCの会合では、大統領は完全に上の空だった。話されている事が理解を超えていて、とても居心地が悪そうだった。」と話す。
テロ対策コーディネーターだったアンソニー・クイントンも、「私が状況を説明した時、大統領はゼリービーンズを2つほど食べると、居眠りを始めた。私はすっかりやる気を無くしてしまった。」と語っている。
前任者のカーター大統領が引き継ぎをした際には、レーガンが全く話に関心を示さないので困惑したという。
カーターの報道官だったジョディ・パウエルは、こう証言する。
「カーターは、レーガンが知っておくべき非常に重要な事を話した。
それなのに、レーガンは説明を聞き流し、質問の1つもせず、
メモすら取らなかった。」
1982年の終わりに中南米の訪問から戻ったレーガンは、記者たちに「驚いたね、中南米があんなに沢山の国に分かれているなんて」と言った。
下院議長だったティップ・オニールは、「自分は下院に34年間いたが、レーガンほど物を知らない大統領は居なかった」と言っている。
レーガンは、『ほら話』が多かった。
1983年末にイスラエルのシャミール首相と会談した際、「第二次大戦中にカメラマンとして、ナチスの強制収容所から捕虜が解放される様子を撮影した。捕虜たちの苦境に大きな衝撃を受けた。」と語った。
シャミールは感銘をうけたが、その後にレーガンは大戦中に一度もアメリカを離れていない事が判明した。
レーガンは、「生活保護の女王」のほら話を何度もしている。
その女王は、80の名前と30の住所を持ち、非課税所得が年間15万ドルを超えているという。
「強欲で不正な黒人が、白人からカネを盗んでいる」と非難したかったのだ。
彼は、著名人の言葉を捏造することも多かった。
レーガンは、相手が外部からの訪問者であっても、閣僚であっても、誰かと会話する時はスタッフからカードを渡されていた。
そこに書かれた文章を、そのまま読み上げるのだ。
レーガンの補佐官となったウィリアム・クラークは、彼があまりに無知なのにショックを受けた。
そして、世界の指導者たちを解説する映画を制作するように、ペンタゴンとCIAに指示した。
レーガンはあまりに無知だったため、部下には入り込む隙間が大きかった。
入り込んだ1人が、副大統領のブッシュである。
ブッシュは、ロックフェラー、モルガン、ハリマンといった財閥と古くから繋がりがある。
彼はイェール大学を出た後、テキサスで石油商人となった。
1970年には、ニクソン大統領の指名で、共和党の全国委員会の委員長に就いた。
レーガンが判断を下さないので、部下達は主導権をめぐって激しく争った。
ただし、すべてを隠密に進めるという強い意思だけは、皆に共通していた。
カーター政権はCIAの行動を制限したが、レーガン政権はそれを一転させた。
CIA長官に指名されたウィリアム・ケーシーは、「ソ連はすべての国際テロの元凶である」と信じていた。
CIAは「ソ連はテロと闘っている」と知っており、それをケーシーに伝えたが、彼は信じなかった。
政権内の強硬派たちは、「ソ連は危険で、常に勢力の拡大を追求している」との見方をしていた。
実際には、当時のソ連はすでに崩壊に向かっていた。
(2015.7.12.)