(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ3』から抜粋)
ベトナム戦争後のアメリカは、武力で紛争を解決する事に慎重になった。
これについてネオコンは、『ベトナム症候群』と呼び、「戦争に異様なほどの拒否反応を示す、一種の病気」と解釈した。
レーガン大統領はネオコンの考えに同調し、こう主張した。
「我々は、あまりに長い間ベトナム症候群を患っている。
10年近くにわたり、『我々は侵略者なのではないか』と問う
声が聞かれている。
そろそろ認めてもいい頃だ。我々の戦いが崇高な理由による
ものだと。
もし罪の意識を持つならば、命を落とした5万人ものアメリカ
人の名誉を汚す。」
レーガンは、状況を変えるために、鮮やかな軍事的勝利を切実に求めていた。
そんな中、1983年にチャンスが訪れた。
グレナダで、モーリス・ビショップ首相の政府がクーデターで倒されたのだ。
グレナダは、カリブ海にある小さな島国で、人口は10万人ほどである。
ビショップは処刑される前に、「国家の安定を損なう動きがあり、その動きは帝国主義の邪悪なアメリカによるものだ」と発言していた。
アメリカ政府は、クーデター後の不安定な状況につけ込み、カリブ諸国に「アメリカに介入を要請しろ」と圧力をかけた。
ちょうどその時、中東のレバノンでアメリカ海兵隊の兵舎がテロ攻撃を受けて、241人もの死者が出た。
この失態から国民の目をそらすため、レーガン政権はグレナダに侵攻する事を発表した。
侵攻の理由は、「危険にさらされたアメリカ人医学生を救出するため」だった。
実際には、医学生たちに危険はなかった。
アメリカ政府は、グレナダ侵攻軍へのマスコミの随行を禁じ、政府の撮影した映像を提供した。
7000人のアメリカ軍は、小規模のキューバ軍の抵抗にあった。
(空港設営のためにキューバから部隊が派遣されていたのです)
アメリカ軍は19人が死亡し、負傷者は100人を超えた。
9機のヘリコプターが失われ、部隊の大半は撤退して、侵攻作戦は失敗に終わった。
だが下院議員だったディック・チェイニーは、「実行するアメリカというイメージを、世界中に印象づける事ができた」と、侵攻を称賛した。
下院議員のドン・ボンガーが「医学生が危険にさらされていた事実は無い」と言うと、チェイニーは「グレナダはアメリカに脅威を与えている。アメリカは危機に瀕している」と反論した。
下院議員のロン・デラムスは、侵攻に異議を申し立て、こう説明した。
「学生を救うというのは、見え透いた口実にすぎない。
われわれ代表団の調査では、侵攻前にたった1人でもアメリカ
人の安全が脅かされていた例を見つけられなかった。
アメリカ軍が学生の安全確保を目的にしたならば、
なぜキャンパスにたどり着くまで3日も要したのか。」
国連総会では、『アメリカの行動は、国際法への重大な違反』と決議された。
レーガン大統領は、アメリカ国民に向けた演説で、こう言った。
「グレナダは、安全保障上の脅威です。
砲弾などの武器が天井近くまで積み上げられた軍用倉庫があり、
数千人のテロリストに武器を支給しています。
かねてよりグレナダは、穏やかで優しい楽園であると言われて
きました。
実際のグレナダは、ソ連とキューバの植民地で、民主主義を
攻撃するための主要な軍事拠点です。
我々は、そこに攻め込みました。」
(2015.7.23~25.)