日本を占領したアメリカ軍は、戦犯たちをスパイとして雇う
有末精三、河辺虎四郎、児玉誉士夫

(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)

日本を占領したアメリカ軍のトップ、ダグラス・マッカーサー元帥は、CIAを疑い信用しなかった。

1947年にCIAは発足するが、47~50年まで東京のCIA支局の活動を制限していた。

マッカーサーには独自のスパイ網があり、終戦直後から構築されたものだった。

CIAは、(マッカーサーが解任された後に)このスパイ網を受け継ぐことになる。

マッカーサーを諜報面で補佐していたのは、チャールズ・ウィロビー少将だった。

ウィロビーはGⅡのトップだが、陸軍でも最も右寄りの人で、45年9月に最初の日本人スパイを雇った。

その日本人スパイとは、日本陸軍・参謀本部の第三部長で諜報責任者だった、有末精三である。

有末精三・中将は、日本が敗戦する直前には、戦勝国に提供するための諜報関係資料を集めていた。

「戦後に自分の身を守ることになる」と考えたからである。

有末は、高位の軍人であり、戦争犯罪者として起訴される可能性があった。

だから、アメリカ軍の秘密工作員になることを自ら申し出た。

チャールズ・ウィロビーからの最初の指令は、「日本の共産主義者に対する工作を計画し、実行せよ」だった。

有末は、参謀次長の河辺虎四郎に協力を求め、河辺はチーム編成にかかった。

1948年になると、冷戦構造の生みの親であるジョージ・ケナンは、こう主張した。

「日本では、政治改革よりも経済復興のほうが重要で、
 実現も容易である。

 日本の産業を解体し、解体した機材を戦時賠償のために中国に
 送っているが、中国が共産主義国になりそうな時に
 それは正しいのか。」

マーシャル国務長官はケナンを日本に派遣し、マッカーサーを説得させた。

ケナンの力によって、アメリカの対日政策は48年末までに急転換を遂げた。

(これを逆コースといいます)

戦争犯罪者の訴追など懲罰的な政策は、緩和された。

これにより戦犯たちは釈放され、CIAは彼らをリクルートし、「経済カルテルの復活」「警察予備隊の創設」「保守党の復活」の素地を作った。

1948年冬に、ウィロビーは『暗号名タケマツ』という計画をスタートさせた。

この計画は2つに分かれており、「タケ」は海外情報の収集、「マツ」は国内の共産主義者への対策だった。

河辺虎四郎は、ウィロビーに1千万円を要求し(当時の1千万円は非常に高額です)、スパイを極東各地に送って通信傍受をすることと、中国国民党の支援をすることを約束した。

だが、河辺たちの集めた情報は、おおむね嘘かでっち上げだった。

有末精三は、北朝鮮での工作には、渡辺渡(元少将)の手を借りた。

しかし、渡辺は使い物にならず、手掛けた作戦はことごとく失敗した。

一方CIAは、東京に支局を置くと、ウィロビー配下の日本人スパイを監視し始めた。

そして、その実体を知り驚愕する。

日本人スパイたちは、諜報網ではなく、『右翼体制の復活を狙う政治団体であり、同時に金儲けのために集まった者たち』だった。

CIAの報告書は、「右翼の指導者たちは、諜報活動を価値ある食いぶちと見なしていた」と要約している。

有末と河辺は、アメリカを常習的に騙していた。

例えば、台湾の国民党の許に日本人を送り込み、その代わりに大量のバナナや砂糖をもらい受けて、日本で売って巨額の儲けを出していた。

最悪だったのは、有末らが在日の中国人工作員に情報を売っていた事だった。

ウィロビーは有末を信頼し、軍とCIAの内部抗争についても有末に話していた。

ウィロビーには荒木光子という愛人がいたが、荒木は日本政府に情報を伝えていた。

朝鮮戦争中も、アメリカの情報収集活動は上手くいかなった。

CIA報告は、「ほとんどのアメリカ人は日本に不案内であり、そのために騙されやすい」と書いている。

朝鮮戦争への中国の参戦を、ウィロビーとそのスパイも、CIAも、予見できなかった。

アメリカが日本で行ったお粗末な仕事の見本は、政治マフィア児玉誉士夫の起用である。

児玉は、議員に殺害の脅迫をしたり、政治家を暗殺しようとして、何度も投獄された過去のある男だ。

戦時中は上海に足場を置き、5年にわたって闇市を取り仕切った。

児玉の組織(児玉機関)の工作員は、金属からアヘンに至るまで買ったり盗んだりしていた。

日本陸軍も日本海軍も、児玉の行為を見逃し、児玉の提供する品を転売して大きな利益を上げていた。

終戦の時、児玉の財産は17500万ドルに上っていた。

児玉は、日本の敗戦後は拘置所に入れられたが、(アメリカに協力すると約束したため)1948年に釈放された。

児玉は、有末らと協力し、CIAの資金援助を受けて秘密工作をこなしていった。

アメリカ軍がタングステンを必要になると、児玉一味は日本軍の貯蔵庫から何トンものタングステンを盗み、アメリカに密輸出した。

国防総省はこれに対して1千万ドルを支払い、児玉一味は200万ドルの稼ぎとなった。

この密輸を計画したのは、元OSSのジョン・ハウリーだった。

密輸グループの1人は、元OSSのケイ・スガハラだった。

収益の一部は、占領終結後に行われた1953年の国政選挙で、保守派の候補者に注ぎ込まれた。

児玉誉士夫は、資産の一部を最右翼の政治家に注ぎ込み、これらの政治家を権力の座につけるアメリカの工作に貢献した。

(児玉=CIAが支援した政治家の1人は、岸信介です。

 彼に対しての工作は、こちらです。)

(2015年1月25日に作成)


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