原爆の大実験 クロスロード作戦(1946年)

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

1939年1月26日、カーネギー研究所は「核分裂が発見された」と発表した。

原子核を1個分裂させた事は、核分裂の連鎖反応も起こせる事を意味していた。

それから6年7か月後に、アメリカは広島と長崎に原爆を落とし、25万人の命を消し去った。

原爆の開発・製造の責任者は、ヴァネヴァー・ブッシュだった。
彼こそ『マンハッタン計画』の責任者だ。

ブッシュは、原爆開発を決めたルーズベルト政権の時、大統領の科学顧問のトップだった。

ブッシュは、日本が降伏して第二次世界大戦が終わっても満足せず、トルーマン大統領に対し「ソ連に立ち向かうには革新的なテクノロジーが必要だ」と進言した。

そして旧陸軍省のメンバーと組み、原爆の実験を計画した。

太平洋のマーシャル諸島において、模擬海戦の状況をつくり、そこを原爆で攻撃するという実験だ。

接収した日本やドイツの軍艦が、何十隻も集められた。

お役御免となったアメリカの軍艦も集められた。

軍艦には、何千匹もの豚や羊やネズミが乗せられ、耳に放射能測定器をつけている動物もいた。

この核兵器の実験は、『クロスロード作戦』と呼ばれた。

アメリカはこの実験を行う事で、「自分たちは原爆を使う用意がある」とソ連に示そうとしたのだ。
(※この時点ではソ連は原爆を持っていない。つまり脅しをかけたのである。)

『クロスロード作戦』は、ビキニ環礁で行われることになった。

当時、ビキニ環礁には167人の住民がいたが、全員がアメリカ軍によって200km東にあるロンゲリック環礁に強制移住させられた。

アメリカ軍は住民に、「核実験のため、しばらく故郷に帰れないが、これは世界平和のためである」と説明した。

クロスロード作戦に参加したアルフレッド・オドネルは、こう回想する。

「気がかりな事が多すぎた。本当に大丈夫だろうか?と考えていた。

 タコがやってきて、原爆のワイヤーの1つに触ったら?
 どこかが外れでもしたら?。
 そんな事ばかり考えた。」

コントロール・ポイントから海底を伝って23キロトンの核爆弾に繋がっているワイヤーの事を心配していたのだ。

オドネルは、配線と起爆を担当する24歳の若者だった。

彼は海軍に入隊し、無線と電気工学で頭角を現したため、ヴァネヴァー・ブッシュらが創設した軍需メーカー『レイセオン社』に引き抜かれた。

その後、MITの教授であるエドガートン・ジャームスハウゼン、グリアの3人が起こした会社『エドガートン、ジャームスハウゼン&グリア(EG&G)』に転属になった。

そしてハーバート・グリアから、原爆に配線を施す技術を教わった。

1946年の夏、ビキニ環礁には4.2万人が集まった。

作戦に参加したリチャード・サリー・レグホーン大佐は、上空から核実験を撮影する任務を与えられ、これまで多くの午後をリハーサル飛行ですごしていた。

そのリハーサル訓練は、ニューメキシコ州のロズウェル陸軍飛行場でうけていた。

レグホーンは、ノルマンディ上陸作戦の時に浜辺を撮影した人物で、27歳だったが有名人だった。

司令部には、カーティス・ルメイがいた。

彼は、東京大空襲をはじめ日本の焦土化作戦の立案者で、広島・長崎の原爆投下の指揮官でもあった。

彼の冷酷さは有名だったが、自ら戦場に赴くため部下の信頼は絶大だった。

実験の原爆が爆発すると、白っぽいオレンジ色の強い閃光が起きた。

そしてメガトン級の巨大な円柱が立ち昇り、キノコ雲が形づくられた。

オドネルは回想する。

「恐ろしいなんてもんじゃなかったよ!
 キノコ雲がどこまでも大きくなっていくんだから。

 64km離れた地点におり、4分後に衝撃波が来ることになって
 いたが、手すりに摑まるのを忘れていた。

 衝撃波がやって来たとたんに、私は身体を持ち上げられ、
 3m後方にある壁まで飛ばされた。」

レグホーンは、上空から背筋の凍るような光景を見ていた。

水面下の火球により、高さ1830m、幅610mもの水柱が現われたのだ。

置かれていた軍艦たちは、水柱に持ち上げられ、消えていった。

レグホーンは言う。

「あの瞬間に悟ったよ。核戦争は絶対に起こしてはいけないのだとね。

 そして軍事的優位を保つには、敵を上空から偵察して情報を
 集めるしかないと考えた。」

レグホーンは「上空からの偵察の重視」を主張していくが、カーティス・ルメイと対立することになる。

ルメイは、「核兵器こそが戦争で勝利をもたらす」と固く信じていた。

さらにルメイは、重大な事実を知っていた。

統合参謀本部がクロスロード作戦の直前に、政策を変えていたのだ。

暗号名「ピンチャー」と呼ばれる新政策は、「第一撃政策」と称するもので、『必要ならばこちらから第一撃を加える(先制攻撃する)』ことになった。

それまでのアメリカは、『攻撃された場合にのみ戦争に参加する方針』だった。

第一撃には、30発の原爆投下も含まれていた。

ルメイは、この核実験の後に、こう力説した。

「多数の原爆を1度に投下すれば、どんな国でも破壊できる。

 地上に存在する人類を激減させられる。

 今いちばん必要なのは、効果的な核弾頭の運搬手段であり、
 空軍の強化だ。」

結局、カーティス・ルメイの願いはすべて叶えられた。

ルメイはSAC(戦略航空軍団)の司令官に昇進し、第一撃で使用可能な原爆の数は30から133に引き上げられた。

彼は、原爆の1000倍のエネルギーを持つ新しい核兵器「水爆」の強力な推進者ともなった。

そしてアメリカは、7万個の核兵器をつくっていく事になる。

一方、ソ連の指導者スターリンは、クロスロード作戦を全く異なる視点で見ていた。

この核実験には、ソ連から2人の代表が招待されていた。
物理学者とMGB(KGBの前身)の職員だ。

スターリンは報告を受けると、「アメリカはこれからも核爆弾を使う」というメッセージだと確信した。

すでにソ連は、原爆の開発に着手していた。

(2019年2月1日に作成)


アメリカ史 第二次大戦の終結後 目次に戻る