(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
私の父(ジョゼフ・ボナーノ)はボナーノ・ファミリーのボスだったが、ジョゼフ・ヴァラキがマフィアの内情を暴露したため注目を集めて、警察やマスコミから狙われるようになった。
それで父は、カナダのモントリオールに移住した。
父が不在の間、ボナーノ・ファミリーの運営は、副ボスの3人に任された。
ジョニー・モラレス、ガスパー・ディグレゴリオ、私の3人にである。
ジョニー・モラレスは、実質的にナンバー・ツーだったが、兵役拒否の容疑で指名手配されていたため、偽名で暮らしており、人との接触も制限していた。
ガスパー・ディグレゴリオは、非常に内向的な男で、仕事の利害のほとんどはニューヨーク州ロングアイランドにあり、そこを出たがらなかった。
ナンバー・スリーで父の相談役をしているジョン・タルタメッラは、2度も卒中の発作に襲われて、引退状態だった。
というわけで、私は重要な仕事を任されるようになった。
だが私はまだ若造で、他のリーダーよりも何十歳も若く、経験も限られていた。
私の仕事には、民主党・全国委員のカーマイン・デサピオとの会談もあった。
彼とは何度も会った。
ある日、幹部のジョー・ナタロが興奮して私の所へやってきた。
「大至急、リーダー同士の話し合いの場所に行かなければならない。暴力沙汰が起こる危険がある」と言うのだ。
我々は猛スピードで会合場所へ急行したが、部屋に入ると重々しい顔をした大物が揃っていた。
ルッケーゼ・ファミリーのカーマイン・グリブス、ガンビーノ・ファミリーのオニール・デッラコルチェなどである。
この会合で取り上げられたのは、「手押し屋台」だった。
我々ボナーノ・ファミリーの1人が、他のファミリーの男と通りで揉めたのである。
ホットドッグが原因で暴力沙汰になるなど、私には信じられなかったが、話を聞いて手押し屋台の重要性を知った。
ニューヨークでは、手押し屋台は1台あたり1万ドルもして、ほとんどの屋台主はそのカネを出せず、我々から借金をしていた。
さらに屋台主は、我々の所有する会社から食材を買い入れるという同意書にサインしていた。
つまり大金が絡んでおり、どこに屋台を出すかはファミリー間の協定に基づいて決められていた。
話し合いが決着した時、私たちは心底からの達成感を感じていた。
我々マフィアにとっては、煙草とジュークボックスもでかい仕事だった。
何百万箱もの煙草が、ヨーロッパから密輸入されており、税金を払わずに莫大な利益を上げていた。
それにジュークボックスを牛耳れば、レコード業界を牛耳れた。
昔、フランク・コステッロ(ニューヨーク・マフィアのボスの1人)の右腕だったウィリー・モレッティは、自分が気に入っている歌手のフランク・シナトラのレコードを、大量にジュークボックスに送り込んで、シナトラをスターにした。
我々は、ごみ収集や、警察への賄賂の仲介も、仕事にしていた。
また、車のハイジャックも仕事にしていた。
ある日、ボナーノ・ファミリーの若い者が2人やってきて、ニュージャージー州のターンパイクで予定通りにトラックをハイジャックした事を報告した。
車をハイジャックをするには、まず運転手と段取りをつけておく。
運転手は、決められた休憩所に立ち寄り、車にキーを残したままコーヒーを飲みに行く。
そして我々がトラックを手に入れるわけだ。
ウチの兵隊2人が報告しに来た理由は、荷物に悪さがされていたからだった。
荷物はスニーカーだったが、右足の分しかなかった。
少し時間がかかったが、左足のスニーカーも手に入れた。
私がボナーノ・ファミリーのリーダーとして活動するようになると、面白く思わない者がずいぶん居た。
彼らは、私が未熟なのにボスの息子だから今の地位にあると考えていた。
私のファミリーの縄張りの1つが、ニューヨークのガーメント地区だった。
この地区の「国際婦人服・労働組合」を牛耳っていて、「衣服産業のためのトラック運転手・労働組合(ローカル102)」も支配下に置いていた。
かつて、トミー・ルッケーゼ、ジョー・プロファッチ、私の父の3人は、ガーメント地区を分割して統治する協定を結んだ。
ボナーノ・ファミリーの利権は、ジョン・タルタメッラが担当していた。
しかしプロファッチが死に、タルタメッラが病気で引退状態になると、状況は不安定化した。
さらにプロファッチ・ファミリーを継いだジョゼフ・マグリオッコも病死すると、暫定的にジョー・コランボが継いだが、コランボはルッケーゼと組んで私たちは不利になった。
映画『ゴッドファーザー』のせいで、マフィアの「相談役」の役割が著しく誤解されている。
実際には相談役は、ストリート・レベルで動く下部のメンバーと上層部との調停者である。
長くボナーノ・ファミリーの相談役をしてきたジョン・タルタメッラが完全に引退すると、父は会議を開いた。
そして副ボスとして公式にジョニー・モラレスを選んだ。(1957年にフランク・ガロファロが引退して以来、モラレスは非公式に引き継いでいた)
さらに、新たな相談役を決めるための選挙をすることになった。
私は相談役の選挙で、推薦されて候補者になった。
だが、ファミリーのナンバー・ツーのガスパー・ディグレゴリオは、推薦されなかった。
ディグレゴリオは年長者で、父の盟友で、私の名付け親でもあった。
そんな彼が真っ先に推薦されなかった事を、彼は不公正だと感じたらしい。
私は1964年2月に、満票に近い形で選出されたが、ディグレゴリオは反乱を起こすことになった。
私は、相談役に昇進したことを、他のファミリーに知らせた。
ジェノヴェーゼ・ファミリーは、ボスのヴィト・ジェノヴェーゼが服役中のため、暫定的にボスになっているナターレ・エボリ(別名トミー・ライアン)が対応した。
数週間後に、ガスパー・ディグレゴリオはボナーノ・ファミリーから離反した。
それだけでなく、ニューヨーク州バッファローのボスであり、父の従兄弟でもあるスティーブ(ステファノ)・マッガディーノと組んだ。
ディグレゴリオは、マッガディーノと義兄弟の関係にあり(ディグレゴリオはマッガディーノの妹と結婚していた)、とても親しくしていた。
ディグレゴリオは、コミッションの会議に出席して、「今や自分がボナーノ・ファミリーのボスであり、私はコミッションの保護下に入る」と言ってしまった。
これをコミッションは受け入れた。
ボナーノ・ファミリーの長老であるアンジェロ・カルーゾとニック・アルファニオが、ディグレゴリオを説得しに行ったが、拒否されて帰ってきた。
私たちはディグレゴリオを糾弾したが、どれだけの者がコミッションの決定に従ってディグレゴリオに付いていくかを見極めねばならなかった。
ボナーノ・ファミリーは、400名のメンバーがいたが、そのうち半分は別の一派を形成しつつあった。
私の父(ボナーノ・ファミリーのボスのジョゼフ・ボナーノ)は、コミッションとの話し合いの仲介を、サム・デカヴァルカンテ(ニュージャージーのボス)に頼んだ。
デカヴァルカンテに会い、「ディグレゴリオのことはボナーノ・ファミリー内の問題であり、コミッションの問題ではない。もしコミッションが自分と会いたいなら用意がある」と伝えた。
だが、それに対するコミッションの返答は無かった。
ディグレゴリオの離反は、背後に(コミッションの有力メンバーである)トミー・ルッケーゼとカルロ・ガンビーノがいると思われ、プロファッチ・ファミリーの残骸のリーダーであるジョー・コランボも含まれているかもしれなかった。
鍵を握るのは、ディグレゴリオの盟友のスティーブ・マッガディーノだった。
少し経つと、父の従兄弟であり親友のピーター・マッガディーノが、スティーブ・マッガディーノの許を去った。
不当な待遇にうんざりしたのである。
ピーターは父に会い、知っている事を伝えた。
ピーターによると、スティーブは私が相談役に昇進した件を、父が「ボスの中のボス」になるための策略と見ていた。
ルッケーゼたちはそれを知り、スティーブの疑念を利用したのだろう。
ディグレゴリオは、相談役を決める選挙についての不満を、スティーブに話したという。
スティーブ・マッガディーノは、1~2年前にあったジョゼフ・マグリオッコがルッケーゼとガンビーノを殺そうとした動きについて、裏で操ったのがボナーノ・ファミリーだと信じていた。
父がカナダに移住して活動している事も、スティーブはバッファローの自分の縄張りを侵そうとしていると考えていた。
(※ニューヨーク州バッファローはカナダとの国境に近い)
父が帝国を築こうとしていると、スティーブは信じていた。
元々スティーブ・マッガディーノは、イタリアからアメリカに来た父の後見人だった。
だが父が出世する中で立場が逆転し、スティーブは嫉妬していた。
ある時、スティーブの息子が、風紀紊乱のかどで逮捕された。
スティーブはそれをもみ消せず、父が間に入って告発を取り下げさせた事があった。
スティーブは感謝する一方で、屈辱に思ったのは想像に難くない。
それにスティーブは、自分は麻薬取引に反対していたが、部下は取引に関わっており、それを黙認して儲けの一部を受け取っていた。
ある時点から、彼は麻薬密売を認めて、(麻薬密売を大々的に行っている)ルッケーゼらと組んだのである。
スティーブ・マッガディーノやガスパー・ディグレゴリオと揉めている最中に、父(ジョゼフ・ボナーノ)はカナダのモントリオールの移民当局に逮捕された。
ヴィザ申請書に嘘を書いていたためだった。
90日ほど拘留されて、アメリカに引き渡されることになった。
父がシカゴに着くと分かったので、私はシカゴに出迎えるために向かった。
父が戻ってくる(シカゴに着く)前夜、私はシカゴ・マフィアの旧ボスであるポール・リッカとトニー・アッカルドに会い、状況を説明した。
ポール・リッカは、アル・カポネの部下から出世してカポネの後を継いだ人である。
ハリウッドではジョゼフ・ケネディと連携して、様々な映画会社に投資し、力を合わせていくつもの労働組合を骨抜きにした仲だった。
リッカもアッカルドも、私の個人的な問題まで聞き及んでいた。
「そういう話は、どこかから聞こえてくるのものだ」と、リッカは言った。
父のことについては、2人共に「心配するな」と言った。
私は2人と話し終えてホテルに引き返したが、不安は減じなかった。
2人の態度には引っ掛かるものがあり、彼らの目はずっとよそよそしかったからだ。
翌日、父が到着するオヘア空港に行ったが、父がターミナルへ出てきた途端にFBIの捜査官に囲まれて、召喚状を渡されてしまった。
その召喚状は、「翌日にニューヨークで大陪審が開かれるから、出頭せよ」と命じていた。
父はそのままニューヨーク行きの便に乗せられた。
ニューヨークでの大陪審では、父はアメリカ憲法・修正第5条を盾にして、一切の返答を拒否した。
子供と妻の名前を訊かれた時でさえ、修正第5条を盾にしたほどだ。
父は放免されたが、再召喚に備えて常に法務当局へ所在を明らかにしておくよう命じられた。
この年(1964年)は、大統領選挙の年でもあった。
(ケネディ大統領の後を継いだ)リンドン・ジョンソンの勝ちは決まっていたが、ジョンソンと南部のマフィアは昔から繋がっていた。
ジョンソンは便利な男で、ドアはいつでも開かれていた。
もし彼のドアが開いていなくても、側近のビリー・ソル・エステスとボビー・ベイカーのドアが開いていた。
ケネディ暗殺(63年11月)の数週間前に、ボビー・ベイカーは詐欺・脱税・窃盗の罪で辞任した。
ジョンソンは口止め料として百万ドルをベイカーに渡し、1人で罪を着るように求めた。
そもそもリンドン・ジョンソンは、上院議員に初選出された時、不正票でそれを成し遂げたのである。
それ以来、チームスター(トラック運転手の労働組合)や大企業から、賄賂を受け取ってきた。
ジョンソンの伝記作家であるロバート・カロは、こう書いている。
「長年にわたって男たちがジョンソンのオフィスを訪れ、現金の詰まった封筒を手渡し続けた」
(2022年11月11~12日に作成)