2012年11月の「エリザベート・ガラ・コンサート」
を観た感想②

11月8日に観劇した、「エリザベート・ガラ・コンサート」の感想の続きです。

花總まりさん以外の方についても演技評をしようと思っていましたが、長くなりそうだし、このページで一番書きたい事は『エリザベートのストーリーの解釈について』なので、思い切ってカットします。

ここからは、役者さんの演技の感想ではなく、エリザベートのストーリーについて、思った事を書いていきます。

(ちなみに、花總まりさん以外で一番いい演技をしていると思ったのは、香寿たつきさんでした。歌い方が自然のため歌詞が聴き易いし、演じているルドルフの心情もよく分かりました。)

ストーリーについて書いていきますが、私がここで書きたいのは『ストーリー全体の解釈、この作品は何が言いたいのか』という事です。

この作品では、「死」がすごく大きな比重を占めています。
だから、「死とは何なのか」という事について、その人がどのような価値観を持っているかが、ストーリー解釈において大きいと思います。

今公演では、「エリザベート・ガラ・コンサートの感想①」でも書いたように、役者の歌のクオリティが高いため(これは大型のマイクで音を拾っていたのも大きい)、歌詞がよく分かり、ストーリーの流れがしっかりと把握できました。

そのため私は、「この作品が言いたい事は何なのだろう」と考えさせられました。

考えるにあたって、基礎的な感性になったものがあります。
それは、『神へ帰る』という本です。

私は、別のページで念入りに紹介している「神との対話シリーズ」の中の一冊で、「死と死後」のこと詳しく述べる『神へ帰る』で語られる死生観に、大きな影響を受けました。

深い感銘を受け、その死生観を100%信じています。

そのため、今回の観劇ではごく自然に、『神へ帰る』で語られる死生観を基本的な視点にして、観劇をしました。

『神へ帰る』では、以下の死生観が語られています。

「私たちは、何百回も転生している」

「死は祝福である。死後には、神と一体となる栄光がある」

「死んで神の許へ行った時に、まだ自分の人生が達成していないと本人が(その魂が)思ったら、それを宣言して、この世界に戻ってこられる。
その際は、奇跡的な回復や奇跡的な状況が用意されて、死んではいなかったという演出がなされる。」

「本人が納得・満足していないのに死ぬ事は、一切無い」

私はこの死生観が、最も愛に溢れた死についての解釈だと思います。
これ以上に愛に溢れる死後を世界を知りません。
だから、信じています。

そのため、この死生観で今回のガラコンサートを観ました。

この視点からガラコンを観たところ、『神へ帰る』に出会うはるか以前の1999年の宙組公演バージョンを観た時とは、全く違う印象・解釈となりました。

具体的に、どう印象が違ったのかを、いくつか書いてみます。

99年宙組公演の時は、「トートは我がままで変態的な性格の、危険な存在で、何の魅力も無い」と感じました。

でも今回は、「トートは、それぞれの人物が自分の人生を完了できるようにサポートをしている。そういうキャラなのだ」と感じました。

宙組公演の時は、ルドルフの人生について、「トートはエリザベートの愛を得る為に、ルドルフを利用している」と感じました。
しかし今回は、「ルドルフが自分らしく生きられるように環境を整え、最後はルドルフの死を看取った」と解釈できました。

エリザベートが死ぬはずのところを何度もトートが助ける件も、「何だかよく分からないな…何がしたいんだ?」と以前は感じていました。
しかし今回は、「エリザベートが自分の生をしっかり生きるのを、見守っているのだな」と解釈できました。

エリザベートが大木から落ちながら怪我もせずに助かる場面も、「本当は死んでいたのだが、本人の意思で生き延びる事を選択したのだ」と、すごく自然に解釈できました。

ルドルフと共にハンガリー独立のために活動する者達については、「頑張ったけど、報われなかったね。可哀想に。」と感じていました。
しかし今回は「独立は成らなかったが、これはプロセスであり、将来に独立する先駆け・力となったのだ。トートは彼らについても、自分らしく生きる手助けをしたのだ」と感じました。

この様な解釈でストーリー全体を見ていったところ、それぞれの人物に立場があり、それをしっかりと描いている作品だと理解できました。

この作品の魅力は、『様々な人物が、自分の信じる価値観・道を主張して生きることにある』、と強く感じましたね。

私が最も生き方に共感したのは、ハンガリー独立のために活動している人々です。

エリザベート、フランツ、ゾフィーなどは、頑張って生きているのは分かりますが、私欲・執着ばかり感じてしまい、私は共感できません。

私はトートを、「様々な価値観・生き方を受けとめて、それぞれの人が自分らしく生きられる様にサポートをしている存在」として新たに解釈したのです。

すると、今まではあまり魅力を感じていなかったエリザベートのストーリーが、魅力的に見えてきたのです。

この新解釈をすると、エリザベートが死後に幸福を得る事や、最後にトートが白服でエリザベートと抱き合う事が納得でき、作品全体を美しいストーリーだと思えます。

このトート新解釈だと、最後の場面でフランツと激論しますがそれは一時的なものであり、フランツが死んで昇天した時には、トートは全面的な愛で受け入れるという、強引な解釈が必要になりますけどね…。

話をまとめると、「死(トート)は悪者ではなく、実は良い奴なんだ。みんなの人生を充実したものに出来るように、手伝っているのだ」と、私は解釈をしてみたのです。

「そう解釈すると、ストーリー全体が引き締まるし、良い話になる」と気づいたのです。

逆に言うと、こう解釈をしないと、トートを始めとした登場人物が魅力的にならないし、みんながトートに振り回されている、つまらないストーリーになってしまうと思います。

私はオリジナルの海外ヴァージョンを観た事がないのですが、「オリジナルヴァージョンは、宝塚とは解釈が違う」と聞いた事があります。
この作品は様々な設定・解釈が可能なストーリーなのだと思います。

一つだけはっきりと言えるのは、「トートは、とても熱い情熱を持っている」と言う事です。

それは、セリフの端々からひしひしと伝わってきます。

ですから、トート役の人は、情熱をものすごく表現したほうがいいです。
情熱を表現しないと、訳の分からない作品になります。

トートを、クールというか生命感のない感じで演じる人がいますが、完全に間違った解釈だと思います。

トートの発言からは、常に生き方へのこだわりが感じられるし、エリザベートへの情熱もはんぱではありません。
トート役の人は、どんな場面でも誰よりも情熱を見せないといけないと思います。

「死は、逃げ場ではない」というトートの決めセリフがありますが、これはトートが一番こだわっている事についてのセリフであり、万感の思いを込めて言う必要があります。

トート役の人は、「ここは俺が最もこだわっている所なんだ。これを貫く事にすべてをかけているんだ。」という熱い感情で言わないといけません。
そうしないと、作品全体に締まりがなくなります。

今回観た一路さんも、以前に観た姿月さんも、このセリフに重さが足りなかったです。

このセリフは、大声でどなる様に発する役者が多いんですよ。

でも私が演じるなら、ゆっくりした口調で、相手の目をしっかりと見て、落ち着いた心理状態を保ちながら、深い気持ちを込めて相手を諭すように言いますね。

最後のまとめになりますが、エリザベートとトートの二人の演技を、私が捉えたような性格・生き様で演じたら、作品の全体像がより魅力的かつ分かり易くなると思います。

多くの宝塚ファンの人が、この作品を「音楽が素晴らしい」「衣装が最高」と言いますが、逆に言うとストーリーにあまり魅力を感じづらいのではないでしょうか。

「エリザベートは自由を全力で追い求め、トートはそれを愛を持ってサポートする」「トートは他の人たちも、愛を根底にしつつ激情を持ってサポートする」という形を、作品の骨格にしたら、観客はストーリーにも魅力を感じると思います。

あなたは、どう思いますか?

(2012年11月13日に作成)


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