初期のジャズおよびジャズメンについて②

(『ジャズ歴史物語』などから抜粋)

デューク・エリントンは、8歳でピアノを始め、ラグタイムに夢中になった。

1922年12月~23年3月にニューヨークに出て仕事をした。

その後はワシントンに戻った。その間にウィリー・ザ・ライオン・スミスと知り合い、弟子入りする。

エリントンの初録音は24年で、ワシントニアンズがバンド名で、6人編成だった。

ファッツ・ウォーラーの斡旋で再びニューヨークに出て、ケンタッキー・クラブのハウスバンドに加入した。

リーダーのエルマー・スノーデンが辞めたため、エリントンがバンドのリーダーを引き継ぐ。

エリントンはケンタッキー・クラブで4年半働いた。

25年に2曲、26年に12曲、ケンタッキー・クラブ・オーケストラの名で録音している。
10人編成だった。

エリントンのバンドには、1925年?にババー・マイレイが加入。

26年にはトリッキー・サム・ナントンとハリー・カーネイ(16歳)が加入した。
さらに有能なプロモーターのアーヴィング・ミルズと契約した。

1927年12月4日からコットン・クラブに、ハウスバンドとしてエリントン楽団が出演を始めた。

ミルズのミスでフィラデルフィア劇場で出演する契約が12月11日にあったが、ミルズがギャングに頼んで脅迫させ、契約を破棄させた。

コットン・クラブとは専属契約で、エリントン楽団は31年まで働いた。

楽団の演奏で客たちはダンスをした。この時期のエリントン楽団は12人編成である。

コットン・クラブは、ニューヨークのハーレム地区にあった店で、1922年にボクサーのジャック・ジョンソンから悪名高きオウニー・マデンの手に渡り、豪華なジャズ・ショーを売り物にしてシカゴのジーグフェルド式のレビューを手本にした。

出演者とダンサーは黒人だが、客は白人オンリーの店だった。

エリントン楽団が出演していた期間に、歌手のエセル・ウォーターズとアデレイド・ホール、タップダンスのボージャングルス・ロビンソンなどの芸を紹介して、最高級ナイト・スポットになった。

エリントンは、29年制作の映画『ブラック・アンド・タン・ファンタジー』に出演した。
楽団員のジョニー・ホッジスやハリー・カーネイらも出演。

エリントンは32年制作の『絢爛たる殺人』にも出演している。

33年にはイギリスに巡業し、船で渡った。

この時は皇太子の主催したパーティで演奏もした。

39年にアーヴィング・ミルズと仲違いして手を切り、ウィリアム・モリス・エージェンシーと契約した。

そしてヨーロッパ公演を行う。

34~40年は、ブランスウィック・レーベルと専属契約を結び、同レーベルに録音した。

40年にRCAと再び契約した。

47~62年はCBSと専属契約した。

36年12月~41年9月にかけては、ジョニー・ホッジスの名義でエリントン楽団のピックアップ・メンバーによるセッションを盛んに録音した。

バーニー・ビガード、レックス・スチュワート、クーティ・ウィリアムスらが参加している。

41年の夏に、エリントンが作曲し、ポール・ウェブスターが作詞したミュージカルが上演され、エリントン楽団が演奏を担当した。

エリントン楽団は、40~46年は18人編成だった。

50年12月19日に、エリントンはジャズ史上で初となるLP録音をした。

それまではSPレコードの時代で、3~5分の録音しか作れなかった。

映画音楽を手がけたのは59年の『ある殺人』が最初である。

早書きのエリントンは48時間前に依頼され、すぐに作曲した。この作品で賞も獲っている。

60年には『パリの旅愁』も担当し、この映画にはエリントンやルイ・アームストロングも出演した。

エリントンの作曲の特徴は、自分のバンドに居るメンバーの性格とプレイ・スタイルを生かすように考えられている事だ。

彼は生涯に3千曲あまりを作曲した。

エリントン楽団は、4つの時代に分けられる。

1928~39年は、ジャングルの時代である。
この時期は、ブルースと流行歌からヒントを得たシンプルな曲を、熱狂的かつ陽気に演奏している。

40~44年はスイングの時代で、編成を拡大し、リフを使う演奏をした。

45~54年は組曲の時代で、長尺な組曲風の作品が多かった。ソリストが活躍し、長いソロをとった。

55年からは総合的な音楽となった。

ビリー・ストレイホーンは、作曲家・アレンジャーで、長くエリントンの相棒として活動した。

エリントン楽団は、練習量は少なく甘いものだった。

カウント・ベイシーは、一人っ子で、母親からピアノを学んだ。

そしてファッツ・ウォーラーにオルガンを学んだ。

ベイシーは控え目な性格で、慎重、冷静、内向的、無口だった。

ニューヨークの劇場・酒場・ダンスホールなどでプレイしていたが、1925年ごろにゴンザレス・ホワイトのボードビル・ショウに加わって巡業に出た。

ところがこの楽団は、カンサス・シティで解散してしまう。

28年にベイシーは、ウォルター・ペイジの率いるブルー・デヴィルスに参加した。メンバーにはジミー・ラッシングもいた。

31年に、ベニー・モーテンのバンドに、ベイシー、ペイジ、ラッシングは引き抜かれて、ブルー・デヴィルスは解散となった。

32年になると、モーテンのバンドはRCAに録音を始める。

しかし34年にベイシーら数人が脱退し、アーカンソーで活動を始めた。

35年にモーテンが急死すると、ペイジがバンドを再編しようとするが、失敗。
そしてベイシーが中心となって再編する事になった。
こうしてベイシー楽団が生まれた。

ベイシー楽団は、36年にデッカ・レーベルと契約し録音。ニューヨークに進出した。

この時のデッカとの契約は、レコード12枚で、印税なしで750ドルだった。

デッカとの契約は45年まで続いていく。

36年12月に、ローズランド・ボールルームに出演してニューヨークにデビューする。

その際に、8人から13人に編成を拡大した。

47~49年にはRCAと契約した。

50年1月にベイシー楽団は人気が落ちて解散となった。
その後はしばらく編成を縮小して活動した。

レスター・ヤングは、ベイシー楽団の花形テナー奏者だったが、彼のクールな音はフランキー・トランバウアーの音を真似たものだった。

トランバウアーは、Cメロディ・サックスの奏者だった。

レスターは、はコールマン・ホーキンスの後任として、フレッチャー・ヘンダーソンの楽団に加入した。

その後、カウント・ベイシー楽団に加入し、スター・プレイヤーとなった。

レスターは、第二次大戦が始まると徴兵されて軍隊に入ったが、私物検査の時に妻の写真を見られてしまう。

レスターは黒人だが、当時の彼の妻は白人だった。

このため、人種差別の激しい白人の上官から苛められた。

(この苛めにより、彼は精神病を患うことになり、長く苦しめられる事になる)

44年10月~45年6月まで兵役についたが、彼は軍隊に全く馴染めず不名誉除隊となった。

ベニー・グッドマンは、シカゴの仕立て職人の家庭に生まれた。

12歳でクラリネットを始め、翌年にシカゴの劇場が催したコンテストに入選。13歳でプロ入りした。

1934年に自己のバンドを結成。

ベニー・カーターは、アルトサックス奏者だが、ドン・レッドマンやフレッチャー・ヘンダーソンの楽団のアレンジを担当した。

また、デトロイト出身のマッキンニー・コットンピッカーズの音楽ディレクターとして名をあげた。

1936年に、BBC(英国)のスタッフ・アレンジャーになった。

ヨーロッパ各地で音楽の仕事をする。

45年にハリウッドに移住し、映画音楽を手がけた。

エドガー・サンプソンは、エリントン、フレッチャー・ヘンダーソン、チック・ウェッブの楽団でアルトサックスとバイオリンを演奏した。

彼は「サヴォイでストンプ」などの作曲をし、いろいろな劇作の作曲もした。

コールマン・ホーキンスは、5歳でピアノを始め、その後にチェロを始めた。

9歳でテナーサックスを始める。

1922年にマミー・スミスの伴奏楽団員として各地を巡業。

23年にはフレッチャー・ヘンダーソンの楽団に参加した。

34年にヘンダーソン楽団を退団し、ヨーロッパに移住した。

39年にアメリカに帰国。

(渡欧中にジャンゴ・ラインハルトらと録音を残している)

ソニー・ロリンズは、15~16歳の頃、ホーキンスの家の近くに住んでいたため、遊びにいきサインなどをねだった。

ビリー・ホリディは、1946年2月16日にタウン・ホールで初のソロ・リサイタルをする。

しかし47年5月に麻薬所持で逮捕された。クラブに出演中だった。
1年と1日の実刑判決となる。

48年2月に仮釈放となったが、前科のためにクラブ出演が出来なくなる。

同年3月27日にカーネギー・ホールで復帰コンサートを行った。

デューク・エリントンの楽団が長期出演した事で有名なコットン・クラブでは、エリントン楽団が辞めた後はキャブ・キャロウェイ&ミゾーリアンズが出演をした。

キャブの楽団は、それまではサヴォイ・ボールルームに出演していた。

キャブ楽団が1934年にコットン・クラブを辞めると、ジミー・ランスフォードの楽団が引き継いだ。

サヴォイ・ボールルームは、ニューヨークのハーレム地区においてコットン・クラブと並ぶ名所であった。

ジャズダンスを踊るメッカとして、高名なビッグバンドが交互に出演していたが、コットン・クラブが白人客オンリーだったのに対し、こちらは黒人客が中心だった。

サヴォイ・ボールルームでは、1931年にチック・ウェッブの楽団が専属契約をした。

チック・ウェッブは、当時最高のドラマーの一人で、アート・ブレイキーの師匠としても有名である。

歌手のエラ・フィッツジェラルドは、チックの楽団でデビューをし有名になった。

1940年に、ナット・キング・コールはトリオ編成のバンドを結成した。

同年12月6日に、オスカー・ムーア、ウェズリー・プリンスとのトリオで初録音をしている。

(2019年12月19日に作成)


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