タイトル神との対話
はじめに

『神との対話』は、ニール・ドナルド・ウォルシュさんが書いた本です。全3巻です。

この本は、スピリチュアルと呼ばれるジャンルの著作です。

でも、シンプルに「哲学書」と言っていいような内容で、人生に密着した話ばかりだし、論理に一貫性があります。

驚くのは、文章はとっつき易くスラスラと読めるのに、内容がとても深い事です。
そして、議論の分かれるようなテーマについても、曖昧にぼかす(ごまかす)事をしません。

つまり、非常に良質な哲学書です。

3巻を通して、『ニールさんと神が、対話という形でコミュニケイトをし、様々な事柄を話し合っていって、人類の諸問題に解答を出す』内容になっています。

基本的に、ニールさんが知りたい事を質問し、神がそれに答えます。

この本の特徴は、神もニールさんも「難解な言い回しをしない」ことです。

概念はたまに難解になりますが、言葉は常に平易です。読みづらさはありません。

これは、哲学や思想を扱った本では珍しい事です。

この本は、自由な対話形式で進められるため、話のテーマがコロコロと変わるところがあります。

そのため、やや理解しづらくなる時が出てきます。

そこで私は、3巻全体をテーマごとに分けて再構成し、文章を短くまとめて書くことにします。

そうすることで、わかり易くなる(ポイントを押さえられる)のではないかと思います。

まだ読んだことのない方や、読んでもピンとこなかった方が、私の紹介ページを見て『神との対話』に興味や理解をもってくだされば、幸いです。

私は高校生の頃から、今の世の中に疑問と不満を持ち、新しい価値観や世界観を模索してきました。

そして、2011年2月にこの本に出会いました。

私は自分でも驚いたのですが、読み進めるにつれて、
「この本に書いてあることを実現すれば、私の望む戦争のない世界や、餓死する者のない世界になる。ここには、今の人類が置かれている深刻な状況を解決するだけの、革新的な概念がある。」
と、確信するようになっていきました。

つまり、『これから地球人類が歩んでいけば(信じていけば)いい道が、ここに示されている』と、どんどん強く思うようになったのです。

最初は第1巻しか持っていなかったのが、2巻と3巻も入手し、何度も読み返すようになりました。

私は読書家で、たくさんの本を読んできましたが、ここまで深い感銘を受けた本はありませんでした。

最初は理解できない部分は飛ばしていたのですが、徐々に理解が進んでいき、全体を把握できるようになっていきました。

理解していくほどに、内容の素晴らしさと新しさに気付き、「これは、しっかり勉強しよう」と決めました。

そして、ノートにとって勉強するまでになりました。

勉強がある程度進むと、「これを世の中に伝えよう。そうすれば人間世界はもっと美しいものに進化する。」との想いが、心の深いレベル(魂のレベル)で強く生じてきました。

そして最終的には、何らかのアクションを起こすしかない(そうせずにはいられない)所まで来ました。

で、どう行動するか考えたのですが、今の時代を考慮して、インターネット上でアクションをしようと思いました。

ネットならば、手軽にアクセス出来るし、お金もほとんどかからないし、誰にでも開かれているからです。

私はたくさんの方にこの本を手に取っていただきたくて、自身のウェブサイトを設立し、『神との対話』の紹介ページを作成する事に決めました。

この本については、「ここで話している神は、本物の神なのか?」と疑問を持つ人は多いと思います。

私は、本物かどうかは問いません。
私にとって、それは重要ではありません。

ニールさんと対話する神は、愛情があるし、冷静だし、鋭い考察をビシビシしてくるし、強い説得力を感じるのです。

私は、聖書(旧約を含む)・仏典・コーランなど、人類史でも代表的な哲学書(宗教書とする人もいるでしょうが、私は哲学書として接してきた)に触れた事があります。

しかし、この本ほどの説得力を感じた事はありませんでした。

私は、この本に圧倒的な説得力(真理の響き)を感じたし、それだけで十分なのです。

「いや~、ついに真理に到達してしまったか。」と思った瞬間もありました。

心底からグッときたので満足感で一杯だし、それ以外に余計な事を発想しないです。

完全にノックアウトされたため、「本物かどうか」とか、「他の哲学書と比べてどうか」とか考えないんですよ。

超絶的に美味しい料理や、超絶的に輝く芸術作品に出会うと、ただただ満足してしまうじゃないですか。

あの感覚です。

ここで語る神には、「あんた、凄いな。そんな深い考察を、こんなに分かり易く言うか。実にクールじゃないか。」と思います。

本当に凄いと思うのですが、そこから生じるのは服従心ではありません。

崇めるとか拝むよりも、拍手したり、肩を叩いて賞賛したりしたくなります。

というのも、ここで語られる神の定義が、「あらゆる生命が神であり、すべてに神性が宿る。あなたも神である。」だからです。

そのため、神の言葉について感心・感動するたびに、「ああ、俺もこうなれるのか。というよりも、俺は本当はこんなに凄いのか。まいったなこりゃ。」と嬉しくなり、神への親近感がどんどん増してきます。

内容を理解すればするほど、神との一体感を得られて気分が良くなり、この世界の奥深さに感謝するようになります。

実際に私は、以前よりも健康になったし、気分よく生きられるようになっています。

その一方で、ここでの神を絶対視する事は、私は選択しません。

なぜなら、他の神の現われ方(神性の表現の仕方)を拒否する事に繋がるからです。

それは狭量だし、危険な態度です。

そもそも、何かを絶対視するのは、私の性に合いません。

「絶対視」をすると、絶対の存在のルールに従わなくてはならなくなって人生に制約ができるし、自分が奴隷になった感じがして気分が悪くなるんですよ。

自分の人生を振り返ってみると、私は大きく変化してきました。

変化し続ける自分や、変化し続ける他の生命を見れば、『諸行無常(すべては変化するし、絶対のものなどない)』と分かります。

そして私は、変化する事で(新しい生き方を選ぶ事で)そのつど成長してきたと思います。

変化を拒んだ時期(絶対を求めた時)もありましたが、その時期は生きるのが苦しく、成長も止まっていました。

ですから、どうやっても「絶対視」は無理です。

楽しく生き、成長していくために、新たな可能性を排除したくないのです。

私は、『偉大な教えの一つ』として、この本と接します。

私は、ここで神が語る内容に完全に説得されたし、人生についてより肯定的に、より積極的になれました。

さらに、物事をより多角的・多面的に捉えられるようになりました。

どのような教えも、大事なのは『自分が成長できること』だと、私は考えます。

(2012.11.4.追記)

先日に、神との対話の続編である『神との友情』の紹介ページを、スタートさせました。

神との友情を勉強していく中で、「内容的に、神との対話のページに入れた方が良いだろう」と思える箇所が幾つかある事に、気付きました。

それについては、神との対話のページに入れる事にします。
ご理解を下さい。

(2013.7.2.追記)

私のウェブサイトでの「神との対話シリーズ」の紹介は、順調に進んでいます。

現在は、神との対話の続編の1つである、『神へ帰る』の紹介ページを作成しています。

『神へ帰る』では、「この言葉はいいなあー、感動した!」という名言が、ちらほらと出てきます。

そういう素晴らしい言葉は、神との対話のページにも載せる事にします。


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