昭和電工の汚職事件

(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)

GHQの民政局(GS)次長であったチャールズ・ケージスと恋愛関係を噂された鳥尾夫人は、手記に次のように書いている。

彼女の夫は日本自動車の重役であったが、会社が資金繰りに苦しんでいるのを夫人はケージスに話した。

するとケージスは、「日本政府には復金という企業に金を出す金庫があるじゃないか」と云った。

彼女は「復金はなかなか貸してくれない」と答えたが、ケージスは「それはおかしい、ではGSで復金の研究を初めてみよう」と云った。

(※復金とは復興金融金庫のことで、1946年に設けられた経済復興を目的とした政府機関である)

暫くしてケージスは、「研究してみたら、復金は昭和電工に非常にたくさん貸し出していた。これは不合理だからよく調べさせる事にした」と云った。1948年春のことだったと思う。

この後ケージスは、「復金のことは警視庁にやらせたが、藤田刑事部長が書類が集まっているのに捜査を進めない。だから書類を取り上げて、検事総長の福井盛太にやらせることにした」と云った。

この手記は示唆に富んでいるが、誤りが多い。

昭電事件を最初に掴んだのは警視庁・刑事部で、1947年の10~11月頃だった。

昭和電工という会社は、森のぶてるが社長だったが、味の素の鈴木三郎助と提携し、やがて社長は三郎助に移った。

三郎助社長の時代は1945年4~5月まで続いたが、その下には森の2代目である森暁もいた。

三郎助が老齢で引退すると、暁が社長になった。

なお、暁の義弟が三木武夫である。

ところで、47年3月になって、森暁社長をはじめ9人の重役が一挙に退陣した。
GHQの追放令にかかったからである。

そして日野原節三が社長に就任した。

節三は、いくつかの会社で社長をし、46年7月に日本水素工業の社長になった。

そして10ヵ月も経ずに47年3月から昭和電工の社長に突然就いたのである。

節三の社長就任を決定する株主総会の3~4日前に、末広・興銀副総裁は復金理事の二宮善基から次の進言をうけた。

「昭電の川崎工場がGHQの帳簿検査をうけ、昨年11月から空白部分が多いので、融資している復金も叱られた。森社長の後任はフレッシュな人にしろと申し渡された。」

こうしてフレッシュという点で、日野原節三に決まったのだ。

これは特殊会社整理委員会の笹山委員長に伝えられ、委員会も了承した。

ところが森暁社長の忠実な部下であった常務の市村寅之助は、この決定に色をなして抵抗した。

すると市村は笹山委員長の許に連れていかれ、「日野原選任は米軍の占領目的から出たものである。異議は認めない。」と通告された。

実は、森暁社長はG2と繋がり、強力に支援されていた。

それがいきなり公職追放となり日野原節三に社長が替わったのは、GSやESS(経済科学局)が後援したからだ。

日本のGHQ占領史では、絶えずG2とGSが酷烈な闘争を行っていた。

昭電事件を真に理解するには、この闘争を頭に入れなければいけない。

『昭和経済史への証言』下巻にある脇村義太郎(当時は持株会社整理委員会の委員)の談話にこうある。

「昭電のトップ交代は、日野原氏と興銀の栗栖赳夫・総裁が相談し、GHQを抱き込んで持株会社整理委員会を使ったのが真相のようです。」

実は47年2月に、ESSのアンチ・カルテル・トラスト課の機関が、突然に昭電の経理検査を行った。

この課は、課長はウェルシェと云い、マーカットESS局長の腹心なのだ。

帳簿検査をして、G2派の森一族の退陣を迫ったのである。

日野原節三は昭電社長になると、特別融資の便宜を頼むため、官界・財界にカネをばら撒いた。
ESSやGSの高官も連日のように接待した。

話題となった秀駒に料亭を持たせた事も、外部の眼を忍んで接待する宴会場にする目的があった。

GS、ESSのニューディーラー達は、大資本の会社の重役を独占資本家として排斥していた。

だから節三のような人物を支援したのである。

節三は復金から低利資金を借り出すために、カネを各方面にばら撒いた。

復興金庫とは国民の税金が元だが、それを低利で長期にごっそりと借り出そうと狙った所は、後の造船汚職とやり方が同じである。

節三は、自分の私行が筒抜けに反対派に漏れていたので、スパイの存在に気付いていたらしい。

親しい連中に「君は僕の行動を外部に漏らしているというじゃないか」と云うこともあったという。

G2の勢力下にあった警視庁・刑事部は、47年の秋ころから早くも昭電の汚職の調査を始めた。

この時の警視総監が斎藤昇であり、刑事部長が藤田次郎であった。

47年12月には、民自党の関係者から斎藤総監にいろいろなデータが提供された。

これは時の内閣が芦田・西尾の連立政権で、昭電のカネがばら撒かれたのが主に社会党方面だったため、それを倒すためのデータ提供であった。

48年1月になると、衆院の不当財産取引調査特別委員会(隠退蔵物資などに関する特別委員会)で、民自党の高橋英吉や田中角栄らが「日野原社長に不正あり」と追及し始めた。

高橋英吉は4月27日に、いわゆる「昭電問題調査の要求書」を提出したが、これは警視庁が内偵して得た資料に基づいていた。

しかし、これは表面の動きであり、実際は日本で騒ぐ前にアメリカの新聞が騒ぎ立てたのである。

G2は、警察を使ってESSやGSの高官を尾行していた。
特にケージスと鳥尾夫人を調べていた。

ケージスはこれに怒り、藤田・刑事部長の更迭を求め、斎藤昇は国警の一翼である皇宮警察に移すのを決断した。

昭電の汚職は、日本の一部ジャーナリストは分っていたが、報道機関を統制していたGSが新聞課を抑えていて報じられなかった。

そこでG2が考え付いたのが、情報を本国アメリカに送り、そこから日本に流すことだった。

この謀略は成功し、ニューヨーク・タイムズなどに掲載され、マッカーサーの日本政策に批判的だったアメリカ政界人が騒然となった。

やがて昭電汚職は日本の新聞に載り始めた。

G2は民自党に好意を持っており、同党が「昭電問題調査の要求書」を提出したのはG2が後ろにいたと見てよい。

警視庁が本腰を入れて調べようとした前後に、浦和地検が昭電の秩父工場で大量の物資が横流れしているのを知り、工場長らを逮捕した。

物資はヤミ売りされて、幹部の慰労金や退職手当に充てられていた。

すぐに警視庁も富山と大町の工場を襲い、ここでも物価統制令の違反を挙げた。

だが当時は、ヤミ売りは他の会社や工場でも殆どやっていた。

食糧がない時代で、自社製品とヤミ米などを交換するのは常識だった。

1948年5月25日には、日野原社長や重役の留守を狙って、警視庁捜査二課が溜池の本社を急襲し、トラック2台に帳簿を積んで引き揚げた。

この一連の動きも、G2が作ったものであった。

6月6日なると、まず日野原社長の秘書と商工省化学局肥料二課の津田信英が贈収賄で検挙された。

15日にはもう1人の秘書、16日には肥料第一課長も検挙となった。

6月22日には警視庁首脳部と東京地検が打ち合わせをして、日野原社長の検挙を話し合った。そして翌日に検挙した。

以後の喚問や収容は詳述しないが、昭電側では藤井孝(取締役)、鳥巣正之(常務)、岡崎一雄(経理課長)、吉田清彦(総務部次長)が連座した。

大蔵省では福田赳夫(主計局長)、興銀では二宮善基(副総裁)、栗栖赳夫(総裁)が連座。

政界では、西尾末広(前副総理)、重政誠之(元農林次官)、松岡松平(元自由党総務)、大野伴睦(民自党顧問)が連座。

G2の目的は、日野原社長らではなく、GSとESSの連中の摘発だった。

当時のGHQは、GSとESSが主導権を握っていた。

なぜかというと、GSは公職追放を進行させていたし、ESSは財閥解体を行っていて、日本のあらゆる層を押さえていたからである。

G2はこれが面白くなく、ケージスらを本国に追い帰す機会を狙っていた。

さらにG2は、社会党を主軸とする芦田内閣を倒して、民自党の吉田内閣を成立させたかった。

だから昭電事件は、G2が芦田内閣を倒壊させるために起こした陰謀とも云える。

その証拠に、芦田均・首相は昭電からみの罪状ではなく、土建業者から収賄したという全く別個の形式で起訴されている。

斎藤昇の『随想十年』に以下の記述がある。

「1949年の9月20日に、私はGHQの公安課の呼び出しを受けた。

 そこには警視庁・公安委員長の小畑氏がおり、公安課長のプレアム大佐は不在で
 あったが、次席の中佐から『昭電事件の捜査を警視庁は速やかに停止して、
 国警において行うべし』と命令された。

 この事件は昭電の些々たる経済統制令違反に端を発して、芦田内閣の要人の贈収賄に
 発展したが、公安課の云うには『警視庁の捜査が悉く外部に漏れている。だから
 国家地方警察が引き継ぐべし』というのであった。

 当時、捜査状況が新聞に連載され、GHQ要人の関与も外電で頻々とアメリカに
 送られていた。

 殊に、捜査内容がアメリカの或る新聞記者によって頻々と漏洩されていた。

 私は『代わって国警が捜査するのは法律的に不可能と考える』と云ったのであるが、
 『これほどの国家的事件を国警がやれない理由はない』との答えであった。

 翌日にはGSのケージス大佐からも同様の要求があった。」

これを見ると、国警はまだG2にそれほど押え込まれていなかったようだ。

昭電事件は、G2が計画的に暴き立てたと云ってよかろう。

GSは、芦田内閣を何とか延命させたかった。

細川隆元著の『昭和人物史』に事情が書いてある。

「芦田均は、『僕が首相に在った時代、GHQのGSは絶えず使いを寄越して、
 全て指示してくる』と云っていた。

 昭電事件が勃発して(元興銀総裁の)栗栖赳夫が検挙された時、芦田は辞意を
 固めたが、GSが『辞めてはいかん』とつっかえ棒を出したため、辞められぬ
 羽目に陥った。

 昭電事件がああまで仰々しく発展した背後には、G2とGSの主導権争いが
 潜んでいた。

 G2が日本の検事局と警察に働きかけ、昭電事件に点火してGSのケージス
 一派を掃蕩しようとしたのは確かのようだ。

 当時の検事総長だった福井盛太が、『これには色々な事情が伏在している』と
 知人に漏らしていたそうだ。」

驚くことに、昭電事件の裁判記録にはGHQの高官の名前が1つも無い。

書類が警視庁から地検に送られる前に、GHQの手でGS関係者の汚職部分が消された。

厖大な捜査調書からアメリカ人の名前を片っ端から抜くのを命じた者は、知る人ぞ知るである。

芦田内閣が倒れても、GSは吉田茂を後継者としたくなかった。

そこでGSが画策したのが山崎猛・衆院議長に組閣させることだ。

これは失敗したが、世に云う「山崎叛乱」となって、猛は議員を辞職した。

結局、昭電事件でケージスは失脚してアメリカに帰され、G2の勝利となった。

G2としては、昭電はどうでもよかった。

あれほど天下を騒がせた昭電事件の最後が竜頭蛇尾になったのは、それを語っている。

昭電汚職の特徴の1つは、贈賄側が贈った品である。

一番多かったのは硫安だったが、これは昭電の製品で、これを使ってヤミ米と換える含みがあったのだ。

当時、肥料に困った農家では、硫安なら喜んで取り換えた筈である。

昭電事件には、財閥解体の骨子となった文書「FEC330号」が絡んでいる。

この文書はアメリカ本国も知らないという奇怪なもので、極東委員会にだけ提出された。
極東委員会はソ連も委員を入れる、GHQの目付機関である。

これの立案者は、ESSトップのマーカットの支柱だったウェルシュである。
彼はGHQ随一の理論家で実践家であった。

この文書をG2が探知し、本国に伝えた。それによりG2と組んだ昭電の森派が巻き返しに成功して、ケージスらの追放につながった。

要するに、昭電事件はG2とGSの争闘の縮図と云えよう。

(2019年8月24~26日に作成)


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