伊藤律とゾルゲ事件と日本共産党の内紛

(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)

(※日本の黒い霧は1960年に書かれたものですが、以下の内容は現在では問題視
 され、別説のほうが有力のようです。
 とはいえ、歴史の勉強に役立つ内容が多く含まれているので、紹介します。)

伊藤律の除名は、日本共産党の第6回全国協議会で1955年7月28日に、満場一致で再確認された。

この時に律の罪状として挙げられたのは、「戦前に検挙されて以来、多くの同志を敵に売り渡したこと」や、「党内で派閥を形成し、党を内部から破壊したこと」であった。

それから1ヵ月半の後に、アカハタ9月15日号に具体的な説明が載った。

「1933年に伊藤律は、大崎署に検挙されたが、当時の彼は学生で共産青年同盟の
 事務局長をしていた。

 律は特高課の宮下弘の取調べを受け、完全に屈服し、共青の情報を渡して釈放された。

 1939年にも律は検挙されたが、特高の伊藤猛虎の取調べに屈服し、
 多くの同志を売り渡し、さらにゾルゲ事件の糸口となった北林トモを売り渡した。

 彼は毎月1回ずつ警視庁を訪れて、情報提供するのを条件に、9月上旬に釈放された。

 その後は従前通りに満鉄・東京支社に勤務し、尾崎秀実らの言動を定期的に
 警視庁に報告した。

 さらに特高の宮下弘、岩崎五郎の私宅を訪問し、これらと会食している。

 1941年10月、ゾルゲ事件の直前に、律は保釈を取り消されて久松署に
 留置されたが、ゾルゲ事件および満鉄事件のデッチ上げに協力した。

 彼は42年に釈放された。

 その後も警視庁に情報提供し、横浜事件のデッチ上げに協力した。

 1943年には刑務所に収容されたが、特別待遇を受け、45年8月に釈放された。

 戦後の律は、わが党を内部から破壊する工作を一貫して行った。

 特に50年の党分裂を激発するため奸策を弄した。

 以上の事を、彼は告白した。53年に党中央は律の除名を決定した。

 彼は目下、国外に居ると思われる。」

伊藤律が1939年に北林トモのことを自白して、それがゾルゲ・グループの検挙の糸口になったのは、今では常識になっている。

だがこれを暴露したのは、1949年に米上院におけるウィロビー(GHQのG2部長)報告である。

その内容は、同年2月21日付の朝日新聞が次の記事を載せている。

「米陸軍省は10日、戦前の日本におけるソ連スパイ事件について、『極東における
 国際スパイ事件ーー1名、コーネル報告』と題する3.2万語に上る文書を発表した。

 これはマッカーサー元帥が東京から報告したものである。

 スパイの巨頭は、ドイツ人のリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実で、共に新聞記者だった。

 また米人の著述家アグネス・スメドレーも、上海で活躍したソ連スパイである。

 日本はゾルゲ事件につき、当時に裁判と判決を簡単に発表したにすぎない。

 スメドレーおよび36~38年に一味の首脳であったドイツ人ギュンター・
 シュタインは、拘束されずに暮らした。

 彼らは29年、32~33年ころに中国でスパイ活動をした。

 これに対する伊藤律の裏切りは、一編の推理小説とも云える。

 ゾルゲは33~41年、絶えずソ連に日本の軍事情報を報告した。

 北林トモはゾルゲ一味の命令に従っていたが、伊藤律は彼女がスパイであると
 警察に告げた。

 彼女は41年9月28日に逮捕され、10月に一味全員が捕まった。」

ゾルゲ事件の当時、伊藤律の名は一字も出なかった。

ウィロビー報告で初めて律のスパイ行為が公表されたのである。

ウィロビー報告の出た1949年といえば、共産党が日本で繁昌した頃である。

この突然の発表は、日本国民に衝撃を与えた。

これについて当時の共産党は、アカハタに志賀義雄の談話として次の発表をした。

「ゾルゲ・尾崎事件は、日本の特高・憲兵・警察が反ソ宣伝に浮身をやつした
 実例であった。

 日本共産党は、この事件になんら関係を持ったことはない。

 1945年10月以来、党は事件究明に当たって、それがますますはっきりした。

 党中央委員・伊藤律が事件に関係があったという噂も、調査を進めた結果、
 特高の謀略と妄想であると判った。
 彼は北林トモと何の連絡もなかった。

 参院議員・中西功が関係していたというのも、全く無根のことである。」

このアカハタの志賀談話は、冒頭の律の除名記事により、誤りであった事が一般に知られたわけである。

ゾルゲ事件では、ゾルゲと尾崎秀実が死刑となったが、当時の警視庁調書にはこうある。

「本機関(ゾルゲ機関)は、コミンテルンの基地にして共産主義の祖国たるソ連の
 擁護で、コミンテルンの手により日本に設置された。

 ソ連共産党中央委員会および赤軍第4本営に直属して、日本帝国の機密を探知して
 いた諜報集団なり。」

ところが警視庁の調査が進み、ゾルゲ一味が検挙されて権限が検事局に移されると、「ゾルゲ機関はコミンテルンの諜報組織」と修正された。

ソ連共産党と赤軍という違う性格のものに直属するという形が、不自然だと見られたのか。

実のところ、尾崎秀実はゾルゲに協力したが、一銭の報酬も貰っていなかった。

この事から、ゾルゲ一味は信念だけの団体で、ソ連共産党や赤軍と繋がっていないと解釈したのだろうか。

後で触れるが、米陸軍省(ウィロビー報告)はまた違った結論を出している。

要するに、ゾルゲ事件の解釈は、これを利用する者の目的でその都度変わるのだ。

このことは、公式文書や権威ある資料がいかにいい加減なものかという教訓も受ける。

ウィロビー報告では、ゾルゲの自供としてこう書かれている。

「1929年の夏、私はコミンテルンとの関係がなくなった。

 私は各地で諜報活動を行ったが、独立下で行った。

 私は何回か赤軍第4部を訪ねて、中国および日本での私の諜報に関する取り決めをした。

 私は中国および日本の共産党との関係を持つのを禁じられた。

 私の仕事がモスクワのいかなる機関に属するかは、教えられなかった。

 『コミンテルンの本部か、赤軍第4部か、ソ連外務人民委員会か、ソヴィエト
  共産党中央委員会に属したのか、私は今もって知らない』。」

この最後の『~』の部分が、これを利用しようとする者の目的次第で勝手に解釈される元になったのである。

ゾルゲの自供は次のように続く。

「私を尋問した検事(のちの特審局長、吉河光貞のこと)にも、1929年以後の
 上司の変化は一切述べなかった。

 1929年以後は、私の命令系統は世界情勢によって変化した。
 これを説明したなら、警察当局の混乱は免れなかったろう。」

ゾルゲ事件は、その衝撃に比較してゾルゲ一味の諜報内容はそれほどでもなかった。

彼らの得た情報は、在外公館や武官情報機関では普通であったと見られる。

だから問題は、情報の中身よりも、組織のメンバーにある。

ゾルゲ一味の摘発については、「伊藤律の口から北林トモの名前が出て、それから宮城与徳の名前が出され、ゾルゲや尾崎が芋づる式に捕まった」という伝説に対して、私は懐疑的である。

当局はゾルゲ団の情報をその前から握っていたと思われるし、すでに内偵が始められていたのではないか。

伊藤律はその捜査のために「申し上げます」の役割を当局から演じさせられたと考えている。

ここで、律を尋問した警視庁特高係の宮下弘の談話を取り上げる。

1957年12月の日本週報427号に載った座談会での話だ。

弘は1940年5月に左翼担当係となり、共産主義者のスパイ組織を調べていた。

そこに目黒署に伊藤律が留置されたので、弘は目黒署に駆けつけて取調べた。

律と弘は、律の33年の検挙の時に弘が尋問して以来、すっかり顔なじみであった。

尋問が続くうち、国鉄共産党と名乗る東京一円の出札改札労働者の組織が発覚し、指導者の長谷川浩、沢田勇作らが検挙された。

それを知った律は、党の再建運動を自供し始めた。

当時、律は肺結核が進行しており、入獄を恐怖していた。
ある日わざわざ宮下弘を呼んで、「自分は胸が悪いし、刑務所に入れられたら死ぬかもしれない。転向するから一ぺん釈放してくれぬか」と交渉した。

警察の方針は、転向する者には寛大だが、非転向には極めて峻厳であった。

弘は、「転向のしるしに自分のやった事をぶちまけてはどうか。僕らの知りたがっているスパイ組織を報せてくれれば、君の転向を信じよう」と持ちかけた。

これに対し律は、「あなたたちは共産党の取り締まりばかりだが、支那では米英の後ろ楯によつて頑強な抵抗が行われているじゃないですか。アメリカのスパイだっていますよ」と云い、次のように話した。

「自分の妻の新井静子と同棲している青柳キクエ。彼女の叔母に北林トモという
 アメリカ帰りの婆さんがいる。

 トモは日本共産党に批判的で、アメリカ共産党のように政府からカネを貰うようで
 なければ政権獲得のできる党にならぬと云う。」

そこで弘はアメリカ共産党の名簿を取り寄せて見ると、キタバヤシトモの名前が載っている。

弘はこの時、トモはソ連系のスパイだと睨んだ。

以上が宮下弘の話だが、よく考えるといくつもおかしい。

例えば、伊藤律が「転向するから釈放してくれ」と頼んだ事になっているが、当時は転向したくらいでは釈放されなかった。

それに北林トモが「アメリカ共産党のように政府からカネを貰わなければ」と批判しているのも、全くのデタラメである。
アメリカ政府は共産党を弾圧していて、それは徹底している。

弘は続けて次のように語っている。

「律は、北林トモはアメリカのスパイだと本気で話していたと思います。
 ソ連系のスパイだと信じていたら、供述はしなかったでしょう。

 ゾルゲ一味の尾崎秀実は律の同郷の先輩だし、満鉄調査部で共に働いていた。
 だから尾崎の関係するスパイ組織を暴露することはしなかった筈です。」

この話は本当だろうか。後述するデータを見ると、これとは全く逆に、律は尾崎秀実をマークして調べる役を与えられ、これを果たしたという結論になるのだ。

とにかく、弘によれば律が北林トモの名を出し、その線から偶然にゾルゲに繋がったと云う。

しかし、律がトモのことだけを話し、秀実のことは述べなかったというのは甚だ疑問である。

宮下弘の証言は続く。

「1941年4月に、満鉄調査部の尾崎秀実が『改造』か『中央公論』に論文を出した。

 支那問題の論文だったが、共産主義者の書いたものに見えた。
 そこで調べてみろという命令が上から来た。

 しかし私たちは論文くらいで尾崎を調べたら、推定しているスパイ組織の検挙に
 支障が出るので、これに反対して時期を待った。」

伊藤律が釈放されると、彼は満鉄調査部に復職したが、同じ満鉄調査部にいる尾崎秀実や川合貞吉の身辺には警戒の眼が光るようになったと、尾崎秀樹(秀実の弟)の『生きているユダ』には書かれている。

宮下弘らは続けて回想している。

「北林トモと宮城与徳を捕まえたが、宮城の口から尾崎秀実やゾルゲの名が出た。

 これは容易ならぬ事件と判断して、一味の即刻逮捕を上司に具申しました。

 しかし尾崎は近衛内閣のブレーンであり、ゾルゲはドイツ大使の秘書で、
 上層部はなかなかうんと云ってくれない。

 最後には思想部長の中村検事に電話してガンガンと云いました。」

以上が当局側の証言だが、今日一般に信じられているように律は北林トモのことを話しただけなのだろうか。

律が偶然にゾルゲ・尾崎を売った事になっているが、これは疑わしい。

尾崎秀実がゾルゲと初めて会ったのは1930年で、仲介したのはアグネス・スメドレー女史であった。

場所は上海で、秀実は朝日新聞上海支局で働いていた。

秀実はゾルゲにすっかり心酔し、10日に1度くらいゾルゲと会って情報提供するようになった。

当時は日本の関東軍が満州占領を目指して軍事行動を起こしつつある時で、ゾルゲは満州の情報を求めていた。

そこでゾルゲは川合貞吉とも親しくなり、貞吉を通して満州方面の情報を得た。

1932年の春に、秀実は大阪本社に戻ることになり、いったんゾルゲと切れた。

しかし2年後に、南隆一なる男が訪ねて来て、こう打ち明けた。

「自分は本名を宮城与徳という。アメリカ共産党員であったが、コミンテルンの指令を
 受けて党籍を抜けて日本に派遣され、ゾルゲと共に諜報活動に従事している。」

この与徳の連絡で、秀実はゾルゲと再会し、諜報活動に協力することになった。

ここで、ゾルゲ団員にちょっと触れてみる。

まず宮城与徳だが、沖縄生まれだが両親がアメリカに移民し、17歳の時に渡米した。

彼は画家になったが、アメリカ共産党に入党し、1932年の末に指導者から「日本に帰って特殊任務に就け」と申し渡された。

こうして与徳はゾルゲと接触し、日本に帰ってきて北林トモなどを組織した。

北林トモは福岡県の生まれで、アメリカにいる北林芳三郎と写真結婚して渡米した。

31年に恋愛関係になった与徳と共に入党。
36年に単身帰国して、洋裁学校の教師となった。

するとすでに帰国していた与徳の訪問を受け、再び交際が始まった。

トモの姪に青柳キクエがいて、これが伊藤律の妻と友人だったことになっているが、キクエは実在するか判らない。(律がでっち上げた可能性がある)

さて、伊藤律だが、尾崎秀実の同郷の後輩である。

秀実は律を買っていたみえ、川合貞吉などに「ぼくの片腕だよ」と紹介している。

律は39年に満鉄に入社し調査部に勤務することになったが、秀実が調査部に入って2ヵ月後のことである。

そして39年11月に特高一課の手で検挙された。

ここに1つおかしいのは、翌40年8月に釈放された律が、直ちに調査部に復職している事だ。
その時から警察のヒモが付いていたと想像する人もいる。

律は秀実の家に始終出入りしていたが、或る時、秀実の家が女中を探していると知ると、「自分が良い人を紹介する」と云ってきかなかった。

女中雇用で異常に熱心だったのも、おかしな事の1つに挙げられている。

1946年2月頃に、自由法曹団の者が警視庁に出向いて、戦時中に押収されたままの書類などを取り戻してきた。

すると、その中から意外な文書が出てきた。
ゾルゲ事件で活躍した特高の伊藤猛虎・警部補の尋問と、それに答える伊藤律の供述のやり取りが書かれた文書である。

そこでは「北林トモという婦人は日本に潜入したアメリカ共産党員ですから、ひとつ洗ってごらんなさい」と律が申し上げていた。

それを読んだ者達は、しばらく言葉も出なかった。というのも当時、律は日本共産党の農民部長として、相当に幅を利かしていたからである。

この文書は共産党・中央委員の志賀義雄に手渡された。ところが何の動きも起きなかった。

律が北林トモのことを知ったのは、尾崎秀実を通してだろうか。

秀実はゾルゲの手下だったが、スパイの訓練は何も受けていない。

ゾルゲが法廷で「組織の責任者は私であり、他の連中は単なる助手だ。尾崎秀実のごときは、政治問題の話し相手にすぎない。私を差し置いて尾崎に罪を着せるのは大変な間違いである。」と主張したのは、真実の声だと思う。

尾崎秀実は冷静な性格ではなく、革命運動家に向いてなかった。

妻がかつて実兄の妻であり、恋愛の末に結婚した経緯を見ても、その性格は判る。

秀実がしばしば妻に書いた手紙は、出版されて『愛情はふる星のごとく』に収められているが、これを読んでも感傷家だったと判る。

一方、宮城与徳も、その恋愛感情から北林トモにすべてを打ち明けた事など、諜報組織者としての欠陥がある。

要するに、ゾルゲのみがスパイのプロだったのだ。

さらに、もっと大胆な見方がある。

当局は、すでに早くから宮城与徳や北林トモの名前を知っていたのだ。

なぜなら1936年末頃から、警視庁のブラックリストに彼らの名前は記載されている。

1930年頃に、モスクワのコミンテルン本部で教育を受けた、小林勇という人物がいる。

彼は日本に帰国中に警察に自首し、大阪に護送されて、当局の要求に応じて厖大な手記を書いた。
この中に与徳とトモの名前がある。

小林勇は、コミンテルンに潜入させられた当局側の者だった。

要するに、当局側の宮下弘は「伊藤律の自供で北林トモを知った」と云うが、実はもっと早くから判っていたのである。

律は前述のとおり、40年8月に釈放されるとすぐに満鉄に復帰したが、これは当局に云い含められて尾崎秀実の身辺を洗うためと考えられる。

そう解釈すれば、女中を秀実の家に入れるのに熱心だったのも頷ける。

もし女中の件が実現していたら、秀実の検挙はもっと早まったかも知れない。

従って、律→トモ→与徳→秀実→ゾルゲという検挙ルートは、検察の一応の形式であって、律→秀実→ゾルゲという本当の形を隠すためとも考えられる。

ゾルゲ事件の時に律の名が出なかったのは、当局が律を「使える人物」と認めたからである。

前に長々と引用した宮下弘の談話は、どこまで真実か判らない。

さて、1945年8月に出獄した伊藤律は、しばらく人民社という出版社に勤めた。

人民社は、のちに『真相』という雑誌を出したが、『真相』はある問題が起きるまでは共産党の指導下にあった。

その頃、律と会った小松雄一郎は「過去の誤りを自己批判すれば赦されるのだから、代々木(共産党本部)へ行って自己批判してこい」と勧めた。

間もなく律は、代々木で自己批判し再び入党した。

46年2月には律は中央委員に推され、47年末には政治局員となった。

当然ながら、この出世には批判もあったが、徳田球一・書記長や志賀義雄が押さえていた。

小松雄一郎は「志賀同志に呼びつけられ、(律を批判した事に対し)律の悪口を云ったとひどく叱られた。それ以後、律の悪口を一切云わなくなった」と語っている。

律にとって、ゾルゲ事件で尾崎秀実を売った過去は、秘密であった。

だから尾崎秀樹(秀実の弟)が事件を調べていると聞くと、しきりに圧迫を加えた。

これは秀樹の著作『生きているユダ』に詳しく述べられている。

戦後に伊藤律が、日本共産党内でやった事は、党の破壊と分裂工作であった。

律が一貫して採った方針は、党歴の古い幹部の団結を割くために、じかに中傷策を用い、集団指導主義を破壊することであった。

律は、徳田球一・書記長に取り入って可愛がられ、非常な信任を得て出世していった。

球一や志賀義雄らは獄中に長く居たり、海外逃亡していたりで、長い間、日本社会から離れていた。
だからこそ小才の利く、GHQに明るい律へ依存したと思える。

律のGHQに関する情報の正確さは、球一に信任される最大の原因だったが、これは律がGHQに繋がっていた事も意味するのではなかろうか。

当時、外部者がGHQから情報を取るのは困難であった。
日本政府の関係者でも充分に情報が取れなかった時期があるほどだ。

1950年4月の『真相』に、共産党の内部を書いた記事が出た。

徳田派に不利な暴露ものの記事だったが、内容が正確なため球一は怒った。

「内部事情をこれほど知っているのは党内のスパイである。こんなものを書くのはアカハタ記者である。」と云い出した律は、アカハタの記者のほとんどを追放してしまった。

この策動によって律はアカハタの副主筆に入り込み、のちには志賀義雄を追って主筆となった。

このような陰謀を1人でやれたのか、という疑問は誰にでも起こるだろう。

律が定期的にGHQに出向いて連絡を取っていたのは、政治犯の解放(日本共産党幹部の釈放)直後で、当時は球一や義雄もやった事だ。

米ソの対立後は皆しなくなり、律だけがGHQ詣りを続けられるわけはない。

とすれば律とGHQのパイプ役が必要だが、戦前の転向組の一部が担ったと考えられる。

1931~32年頃に、Mまたは松村という男が共産党の重要な地位(中央委員)に就き、大森の銀行襲撃を企画し実行させた。

この襲撃事件で共産党を世間に恐怖させたのだった。

彼は現役の憲兵曹長だったとも云われ、内務省警保局が送り込んだとも云われた。

彼は大森ギャング事件を指図した後、熱海で会議を開き、そこに集まった党幹部をほとんど検挙させて、そのまま行方不明になった。
いわゆる10・30事件である。

このMこと松村と、伊藤律はよく似ている。

律は徳田一派を強固に仕上げ、中央委員の神山、春日、宮本らを攻撃し排除した。

宮本百合子までが「血で塗られた米帝の手先」と罵られたのは、この頃である。

その結果、戦前・戦中から活動の中心にいた非転向組が、徳田派からうとまれ疎外された。

しかも徳田派は、特攻隊的な教育をほどこした者を全国に配置し、一切の批判を抑えつけた。

徳田球一の独裁体制を築いたのは律であり、所感派と国際派に党内分裂させたのも律であった。

これだけ党を混乱させたのだから、律はGHQのG2に直接繋がっていたと思える。
従って権力筋(GHQ)から保護されていたはずだ。

ところが、この記事の最初のほうで出したように、G2のウィロビー部長は、律の正体を報告書で暴露した。

これには、GHQと本国の意見対立があった。

1949年2月にアメリカ本国のロイヤル陸軍次官は、「米ソが戦ったら日本の維持は困難で、極東地域は負担である」という意味の声明を出した。

これがヨーロッパ第一主義のロイヤル声明である。

この陸軍省の見解にGHQは反対で、巻き返す動きに出た。

この年に下山事件、三鷹事件、松川事件などが起きたのも、突然にゾルゲ事件をGHQ(G2)が公表して伊藤律の名を暴露したのも、偶然ではない。

49年のウィロビー報告では、ゾルゲ一味の黒幕はコミンテルンから「赤軍第4部」に変えられている。

コミンテルンは形の上ですでに解散された機関だったので、赤軍に変更した。
このほうがソ連に対する恐怖心を煽り、危機の今日性を強調できる。

ところが、このウィロビー報告後も律は日本共産党に居残った。

ウィロビー報告はでっち上げであると反論し、ますます徳田書記長に気に入られた。

そして律は、志賀義雄や宮本顕治の国際派を置いてきぼりにして、徳田派だけで地下に潜るのである。

1950年6月6日にGHQは日共・中央委員会に追放指令を出したが、徳田球一は「緊急事態」という口実の下に中央委員会を開かず、徳田派だけの秘密会合で今後の方針を決めた。

そして自派だけで、1億円に上る公金を掴んで地下へ潜ってしまった。

このGHQ追放の情報を逸早く球一に知らせたのは、律であった。

地下に潜った徳田派は、極左な方針を打ち出し、武装闘争を強調し始めた。

この方針が世間に共産党への恐怖心を煽らせたのは、周知の通りだ。

この結果、党の分裂はいよいよひどくなった。

伊藤律がアカハタで除名の発表を受けたのは、1953年9月である。

この除名は、その年の10月に北京で徳田球一が亡くなったのと無縁ではあるまい。

律を重用したボスは、病勢が昂進していたが、北京で過去の誤りを中共側に自己批判したのではなかろうか。

除名されてからの律の行方は、各説がある。

国内軟禁説、国内病死説、国内粛清説、国外軟禁説、国外粛清説、米国逃亡説などである。

いちばん考えられるのは、中国軟禁説である。

律は日本で査問を受けた上で、中国に運ばれたと思える。
中国に連行された理由は、逃亡の恐れがあることや、アメリカの道具に使われる恐れがあったからだ。

律の存在は日共の統一にとって癌であり、中共もしばしば統一に関して忠告していた。

だから統一機運が動いた時、律の除名が国際派から強く要請されたはずだ。

中共は先輩として、日共の統一の討議に加わり、援助したと思える。

律の査問は、未だに秘密にされている。一説によると、中国での査問に球一も参加したという。

そうならば球一の病状が悪化しない前、53年7~9月頃までに行われたと思う。

査問の後、律は厖大な自己批判書を書いたと推定される。だがそれは公表されていない。

律の女性関係は、あまりに有名すぎるし、ここでは触れない。

ただ、物資の入手が困難な終戦直後に、彼の愛人の1人が病気で、アメリカ製のペニシリンを入手して注射させている。

他にも、アメリカ製の缶詰を尾崎夫人などに贈っていたことは、アメリカと強い関係にあった事を見せている。

律は警察当局から「何でもしゃべる」と定評があったし、戦後に自己批判して日共に入るや忽ち徳田球一に取り入って出世した。

こうした要領のよさと処世術、出世主義が、彼の本領であった。

尾崎秀実は、律の正体を見抜けずに死んだ。

律は、例の社共合同の頃には親しい友人に「自分は今度、農林大臣になれるかもしれない。同期の連中はまだ部長くらいだが」と嬉しそうに話したという。

結局、律はGHQの占領政策の上で、謀略に踊らされたのである。

彼は権力に媚びる小心なインテリであり、末路はそのタイプの見本である。

(2019年9月13~17日から作成)


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