米軍の沖縄支配

(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)

米軍の沖縄支配は、第二次世界大戦中の沖縄戦から始まった。

米軍は沖縄戦の最中から、住民を収容所に入れ、基地の建設を始めていた。

沖縄戦は、戦後の沖縄の在り方をも規定したのである。

米軍は、沖縄に上陸するやいなや、「米軍占領下の南西諸島およびその近海の居住民に告ぐ」という『ニミッツ布告」を発布した。

この布告は、日本政府の行政権の停止と、米軍政府の樹立を宣言した。

チェスター・ニミッツは、米太平洋艦隊の総司令官で、沖縄進攻軍の総司令官でもあった。

1945年4月1日に、米軍は沖縄本島に上陸したが、早くも4月5日に軍政府を樹立した。

軍政は、沖縄上陸軍である第10軍が担当した。

軍政の最大の目的は、日本本土に進攻するための基地建設であった。

事実、占領後に整備した沖縄の飛行場から、本土空襲の爆撃機が発進している。

基地の建設は、工兵隊がブルドーザーを使って短期間に進めた。

捕虜となった沖縄住民は12ヵ所の収容所に送られ、外部に出ることが制限され、居住地に戻ることは許されなかった。

米軍は、住民を収容所に隔離しつつ、基地建設を進めたのである。

日本軍の読谷飛行場・伊江島飛行場・嘉手納飛行場などは、米軍に占領されると整備・拡張された。

また、次々に運ばれてくる軍事物資の集積所も建設されていった。

日本が降伏すると、45年10月から徐々に収容所から解放されたが、戻った住民が見たのは焦土となりブルドーザーにならされた村や町であった。

しかも米軍は、軍の施設区域から半径1マイル以内での住居建設を禁止した。

米軍政府は、沖縄の支配を正当化するため、民主化の政策を採った。

45年8月15日には沖縄諮詢委員会が設置され、9月には市長・市会議員選挙も行われた。

本土よりも先に、女性の選挙権も与えられた。

46年4月18日に諮詢委員会は沖縄民政府と改称された。

だが、すべては米軍政府の管理下にあり、住民が軍政府を批判する事は許されなかった。

1946年1月29日のGHQ覚え書は、「北緯30度以南の南西諸島、奄美諸島を含めて、日本本土から行政分離する」とし、沖縄はアメリカが占領支配することを宣言した。

これに対し、日本本土は日本政府を間に入れる「間接占領」となった。

この結果、民主化と非軍事化が進められた本土と、軍政が敷かれた沖縄とは、全く違う道を進むことになった。

1950年に朝鮮戦争が始まると、アメリカは沖縄を「太平洋の要石」と呼び、恒久的な基地建設を始めた。

日米で講和条約の話し合いが始まると、沖縄の日本復帰促進期成会は3ヵ月で有権者の72%の「復帰を求める署名」を集め、全権代表の吉田茂・首相に送った。

しかし沖縄の想いは無視された。

52年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約は、日本が独立する代わりに、沖縄を米軍支配下に置き続けるものだった。

(2019年9月28日に作成)


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