(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)
敗戦後の日本経済の最大のウィーク・ポイントは、とどまることを知らぬインフレだった。
これを抑えるために、アメリカ政府はジョセフ・ドッジを送り込んだ。
しかしドッジの施策(ドッジ・ライン)は荒療治であり、日本に不況と首切りの嵐を呼んだ。
アメリカのロイヤル陸軍長官は、1948年1月6日の演説で、「極東における共産主義への阻止力とするために、日本の経済力を強化すべきだ」と述べた。
ここにおいて日本の占領政策は、「民主化革命」から「反共の経済復興」へと大きく転換した。
経済復興のため、アメリカは中間賠償の打ち切りや、財閥解体と集中排除政策の中止などを行った。
さらにインフレを抑えるため、ドルと円の固定為替レートを設けることにした。
48年12月にGHQは、『経済安定9原則』を日本政府に指示した。
これは固定為替レートを導入するために、均衡財政(黒字財政)の実現、金融機関の融資抑制、徴税の強化、賃金の抑制などを行い、インフレを終わらせるのが目的だった。
敗戦直後のインフレは、主に軍事国債などの戦時中の政府債務が原因だった。
しかし48年ころになると、インフレの主因は「復興金融金庫の放漫な融資」と、「政府の膨大な補助金支出」だった。
復興金融金庫は、資金の大半を日銀引き受けの債券で調達していたため、融資の増大は日銀券(円)の増発を招き、インフレに直結していた。
アメリカ政府は、賃金上昇もインフレの原因の1つと見ていた。
そこで賃金上昇も押さえ込もうとした。
だが48年に賃金が著しく上昇したといっても、戦前の半分程度に回復したにすぎなかった。
49年2月に『経済安定9原則』を実施するため、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジがアメリカ政府から派遣されて来た。
ドッジは49年度予算について大蔵省に詳細な指示を行い、一般会計と特別会計の両方が黒字になる「超均衡財政」と組んだ。
また、復興金融金庫の新たな融資を、4月からストップさせた。
そして4月23日に、1ドル=360円の固定為替レートの実施を発表した。
ドッジが帰国した直後の49年5月に、カール・シャウプを団長とする税制使節団が、課税強化のため来日した。
この使節団は、9月に累進所得課税を中心とする税制を勧告した。
こうした一連の政策は、労働者にしわ寄せが来た。
金融の引き締め策に連動して企業は大幅な人員削減をし、賃金カットや失業の不安が高まった。
49年5月末には、公務員を24万人も削減する、「行政機関職員定員法」が公布された。
労働組合が解雇に抵抗する中、49年7月6日に下山定則・国鉄総裁が轢死体となって発見された。(下山事件)
さらに7月15日には三鷹事件、8月17日には松川事件が起きた。
三鷹事件と松川事件では、日本政府は捜査が始まる前から労働組合員や共産党員の仕業であるかの様に発言し、実際に犯人として組合員らが逮捕された。
(※松川事件は後に容疑者全員の無罪が確定しています)
これにより、組合の活動は縮小し、ドッジ・ラインは加速した。
これらの事件は、アメリカの謀略機関が行ったとする説も根強い。
(2019年9月28日に作成)