RAA(特殊慰安施設協会)

(『戦後秘史6』大森実著から抜粋)

RAA(リクリエイション・アミューズメント・アソシエイション)は、日本政府が敗戦直後につくった「売春会社」である。

1945年8月21日の東久邇内閣の閣議で、副総理格の近衛文麿は『占領軍の性欲処理』を取り上げた。

文麿は閣議の後、坂信弥・警視総監に「性欲処理で善処するように」と命じた。

こうして内務省警保局長の橋本政実から、各府県にあてて秘密命令が発信された。

「慰安設備を充実させ、接客婦として公私娼妓、酌婦、女給を集めろ」と指令したのである。

当時、上陸米兵による婦女子への強姦が、非常に心配されていた。

警視庁は、売春業のボス3人を非常召集した。

呼び出されたのは、東京料飲組合の宮沢浜治郎・組合長、渡辺政治・総務部長、辻穣・相談役だ。

この東京料飲組合は、戦争中に警視庁が組織させた、食糧や酒の特別配給をする機関である。

徴用労務者にキップ制でわずかの酒や食糧を特配した、酒場や食堂の経営が主目的だった。

この組合の傘下には「貸座敷業」という名目の遊廓や、赤線地帯を包含していた。

東京料飲組合の初代組合長は貴族院議員だった小坂梅吉で、2代目は柳光亭の店主・古立千吉で、3代目が宮沢浜治郎である。

敗戦で開店休業状態だった組合の店たちは、慰安所の話に飛びついた。

浜治郎の発案で、政府と警視庁に保証された『RAA』が設立され、事務所が新橋の第1ホテル内に開かれた。

後に事務所は銀座の料理店「幸楽」に移る。

最初の集会に参加したのは、吉原組合長の成川敏、敏の後継者となる鈴木明、芸妓置屋組合の高松八百吉、慰安所連合会の杉村銀之助などで、女の血を吸ってきた面々である。

鏑木清一は、戦争中は陸軍宣撫班員をやったが、敗戦時に銀座のフグ料理店「山下」の主人、山下茂から「新設されるRAA(日本名は特殊慰安施設協会)の渉外参謀をやってくれ」と依頼された。

清一は、銀座の「幸楽」に仮設されていたRAA本部に出向き、情報課長として開店準備から参加した。

彼は新東宝で映画化された『女の防波堤』の著者でもある。

RAA本部は、『女子事務員募集! 年齢は18~25歳まで。宿舎、服、食糧を支給。 戦後処理の一端として、進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の協力を望む』との広告を新聞などに出した。

鏑木清一は述懐する。

「最初に目をつけたのは芸妓や娼婦でした。吉原の名簿を探してきて、郷里に戻っていた
 女たちを呼び戻した。
 (吉原遊廓は45年3月9日の大空襲で焼け、吉原病院に50名くらいが残っていた
  だけだった)

 それでは足りず、一般募集となった。

 衣食住の保証が効いたのでしょう、若い女がぞろぞろ集まって来た。

 総務部の連中が面接をやったが、ほとんどが素人娘で、会社の事務員や戦災娘が多く、
 接客婦の意味を知らなかった。

 職種には接客婦とダンサーの2種があると説明したが、衣食住つきの誘惑には勝てず、
 応募者の99%が承知した。

 衣料は東京都が責任を持って集めた。食糧も白米を与えスキヤキも提供した。

 女の収入は、ショートタイムで30円、泊まりは100円。これをRAAと女で
 折半した。
 キャバレーは1回踊るのが2円。

 私の給料は1800円で当時の高給だった。」

接客婦たちは、1日に60人の米兵を、1人で処理したという。

鏑木清一の話は続く。

「RAAの店は、広い日本間をカーテンで仕切り、大量に接客させた。

 1人だけ気の毒な女が出た。
 品川の店にいた19歳の娘で、実家が戦災で焼けたため応募してきた。
 処女だったようだ。

 最初の客が黒人兵で、よほど大きなショックを受けたらしく、その後は客をとらず、
 電車に飛び込み自殺をしてしまった。

 他の女たちは、2~3人の客をとると慣れてしまった。」

RAAの資本金は1億円で、業者が5千万円を出し、政府が5千万円を出した。

料亭・嵯峨野の主人である野本源治郎は、自分の料亭の常連である池田勇人に資金調達の依頼をした。

勇人は、勧業銀行の頭取である西田太郎に5千万円の紹介状を書き、業者は第1回の融資として3千万円を無担保で引き出した。

1945年8月28日に、業者たちは皇居前広場に勢ぞろいして、RAA設立の宣誓文を読み上げた。

この声明書には、「神州不変」や「国体護持」の殺し文句が随所に連ねられていた。

RAAは、善良な婦女子を守る防波堤という「功」の面もあったが、「罪」の面も大きい。

物資の横流しがRAA内で頻発したし、売春が公然と行われたので風紀が腐敗した。

RAAは各地に売春宿を設置したが、小岩には260室もあるインターナショナル・ハウスが出現した。

銀座の千疋屋や松坂屋百貨店にも、RAAは開店した。

当時、関東に進駐してきた米兵の数は12万人。
彼らのドル消費の大部分は、性欲処理施設に吸い込まれていったのである。

筆者(大森実)はこの頃、来日したエリノア・ルーズベルト(前大統領の妻)に対し、大阪の飛田遊廓を中心にして、赤線地帯を案内した。

彼女の発言力を使って、米兵たちの狂態を告発する狙いだった。

エリノアは視察を終えると、激怒してこう言った。

「米兵の狂態に驚きました。

 アメリカに戻ったら報告するし、マッカーサー元帥にも注意しましょう。

 しかし、大多数の日本女性は自分の意思でこの世界に飛び込み、反省している面が
 認められない。

 これは、日本女性の自覚の問題だと思うし、こんな馬鹿げた事を許容している
 日本社会そのものに問題がある。」

RAAに応募して売春を常習にする日本女性は、全国で5.5万名に達した。

だが46年1月21日に、GHQは『公娼制度の廃止に関する覚書』を発令し、RAAを含む公娼を廃止に決めた。

敬虔なキリスト教徒を自認するマッカーサーが、国家売春を許容するはずがなかったのである。

だが、公娼制度は廃止されたが、赤線地帯は残った。

10年ほど後の話になるが、1956年に売春防止法が国会に上程されると、売春業者の全国組織である「全国性病予防自治会(全性)」は、20名以上の国会議員にカネをばら撒き、法案が成立・施行しないよう働きかけた。

東京地検は、RAA創設者の1人だった全性理事長の鈴木明、副理事長の長谷川康、専務理事の山口富三郎を検挙した。

全性は、全国の赤線業者1.6万名から、非常対策費として2千万円、転業更生費として3千万円を集め、自民党議員に渡していた。

全国で6万名といわれた接客婦からも、自民党への集団入党費として1360万円を集金していた。

この『売春汚職事件』は政界を揺さぶったが、まず自民党の真鍋儀十が逮捕された。

ところが東京地検は、儀十の逮捕の2日後に臨時国会が開かれたため、国会開会中を理由に釈放するという不始末を演じた。

この釈放劇は、造船汚職事件における佐藤栄作の逮捕を潰した指揮権発動を思い出させて、権力の乱用として世間の罵声を浴びた。

結局、売春汚職で逮捕された自民党代議士は、真鍋儀十、椎名隆、首藤新八の3人だけとなった。

この汚職をスクープした読売新聞の立松記者は、逆に名誉毀損罪で検挙されさえした。

RAAの当時、警視総監の坂信弥は、小岩のインターナショナル・ハウスの開所式に出向き、接客婦になる女たちと一緒に風呂に入浴して、「堂々たる体格の女が揃った。横綱の土俵入りだ、これなら米兵と太刀打ちできる」と賞賛したという

勧業銀行に5千万円を出させた池田勇人といい、坂信弥といい、「貧乏人は麦を食え」(これは池田勇人の放った暴言として有名である)の哲学だったと言えるだろう。

(2019年10月14日に作成)


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