公職追放①

(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)

1945年8月29日にアメリカ政府は、マッカーサーに対して『降伏後における合衆国の初期対日政策』という文書を伝達した。

さらに同年11月3日付で『日本の占領ならびに管理のための連合国最高司令官に対する降伏後初期の基本的指令』という文書を発した。

GHQは、この2つに基づいて占領政策を実行に移した。

11月3日の指令は、公職追放についてGHQに広い権限を与えている。

「日本の侵略計画を作成し実行する上で、行政・財政・経済その他に積極的な役割を
 果たしたすべての人々、および大政翼賛会、日本政治会とその機関、
 並びにこれを引き継いだ団体の重要人物はすべて拘置し、今後の措置を待つべきこと。

 また誰を追放するかを決定する最終責任を与えられる。

 さらに1937年以来、金融・商工業・農業部門で高い責任地位に在った人々も
 軍事的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい。」

この指令は極秘だったので、日本側は政府首脳もすぐに知る事はできなかった。

この追放を実行するに当たっては、GHQ内でG2とGSが意見対立した。

マーク・ゲインは『ニッポン日記』で書いている。

「1つの陣営は、日本の根本的改造の必要を確信していた。

 もう1つの陣営は、保守的な日本こそ対ソ戦の最上の味方だと考えて改革に反対した。

 軍関係の4局(G1~G4)は悉く結束して追放に反対した。

 追放を支持したのは主として民政局(GS)で、他の部局もばらばらながらこれを
 支持した。」

マーク・ゲインがこれを書いたのは45年12月20日で、ソ連はまだアメリカの「戦友」だった時である。

後のGHQの占領政策の転換を予見していて興味深い。

「追放」は巨大な武器であり、これを使って自国に日本を同化させるのがアメリカの考え方であった。

つまり同化に邪魔になりそうな旧勢力の駆逐が狙いであった。

ところが後年になると、民主主義者も追放となった。
これは米ソの対立が激化して、GHQの政策が大きく変わったからだ。

当初の追放は、旧勢力の除去、つまり軍部や軍国主義の復活を予防するために行われた。

またアメリカに敵対した指導者を懲罰する意味も含まれていた。

しかし後になって目的が大きく転換し、ソ連や中国に同調する者の勢力拡大を予防するものとなった。

GHQの追放の最初は、日本の秘密警察を破壊する目的で、山崎巌・内相や上級警察官の全員を罷免したことだった。

この命令で、4960名の内務省官吏が罷免された。

ところでGHQの首脳部は、当初だれを追放していいかよく分からなった。

そこでGHQは日本政府に、経済界や言論界や演劇界などの超国家主義指導者の名簿作成を要求した。

45年10月7日の指令は、1250に上る政治団体の会員全員の名簿提出を要求した。

日本側は、自らの手で戦争犯罪人を決定しようとし、34人の追放者を選んで名簿をGSのホイットニーに出した。

だがホイットニーは「これっぽっちか」と云ってひどく怒った。

そして「ドイツでは同じような追放の下で30万人のナチが追放された。日本もそれに匹敵する人数を追放しなくてはならぬ」と叱ったという。

H・E・ワイルズ著の『東京旋風』はこう書いている。

「追放の記録は不完全で、その多くはGSが不可解と呼んだ火事で焼失してしまった。

 ホイットニーの正式報告では、48年6月時点で71万7415名が審査され、
 8781名が追放になっている。

 これに職業軍人19万3180名を加えねばならないし、追放を恐れて自発的に
 辞職した者は10万人はあったろう。」

追放は、新憲法が制定され地方制度改革の実現と共に、県知事をはじめ市町村長、地方議会にも適用された。

1946年11月22日には、官公職から「公的活動」まで追放の範囲が拡げられた。

このため、公益団体、新聞・出版、映画・演劇、報道機関までが適用となった。

新しい特徴としては、追放者の三等親までも公職に就くのが禁止された。

ホイットニーは投書によって、追放された者が元の会社に出入りしたり、子供を身代わりとして活動させている事を掴んでいた。

GHQは、日本側から出た名簿の他には、密告や投書で追放を決めた例が多い。
この事は、日本人同士の間に悪辣な策謀を流行らせた。

追放は当初、「永久なもの」と日本人に思われていた。
GS指令の中には「旧勢力の永久排除」という文句があった。

まさかアメリカの政策が大転換して追放解除になるとは、夢にも思っていなかった。

だが共同通信の加藤万寿男の話では、GSのネピア議会課長が「他には絶対に云わないでくれ、自分の見方では追放は4年だ」と洩らしたという。

追放名簿の作成は、はじめは日本政府の手で一方的に行われたが、46年6月からは公職適否審査委員会が設けられ、政府とは独立してこの委員会が審査に当たった。
委員長は美濃部達吉だった。

さらに異議申し立てに対するものとして、公職資格訴願審査委員会も設けられた。

だがこの2つの審査会は、殆ど有名無実に等しかった。

なぜなら追放されそうな人物は、直接GHQに訴願の工作をしたからだ。

アメリカの利益になる存在だと認めさせれば追放を免れる可能性があったし、裏取引として財宝や女性を献上する者もいた。

追放を受けた連中は、間もなくアメリカの本音を見抜いた。

というのは、旧軍人の中にアメリカに保護された者が何人もいたからだ。

ワイルズ著『東京旋風』にこうある。

「当然追放されるはずの軍人に、ドイツの駐在武官だった河辺虎四郎と、陸軍情報部長
 だった有末精三という陸軍中将がいた。

 この2人はドイツ語で(G2トップの)ウィロビーと話し合った。

 ウィロビーはドイツ生まれで、名前は元はワイデンバッハだった。

 保護された軍人には、服部卓四郎・大佐もおり、彼は元東條英機の秘書官で、
 参謀本部の作戦課長をしていた。

 日本海軍で保護された筆頭は、中村亀三郎・中将と大前敏一・大佐だ。

 他にも、かつてドイツに派遣された荒木光太郎・教授とその夫人・光子も厚遇を
 受けた。」

荒木光子は郵船ビルで個室を与えられ、ウィロビーの厚遇を受けて「郵船ビルの淀君」と噂された。

GHQには「歴史課」というセクションがあり、戦史の編纂をする名目になっていたが、ここには旧軍人が多く雇われており、本当の仕事はソ連の諜報と推測される。

戦前から対ソ作戦をしていた日本軍人たちは、シベリヤから沿海州に至る精密な地図も持っていた筈である。
後の「服部機関」の噂を考えれば頷けよう。

光子は、歴史課に勤めている時、ゾルゲ事件の資料をウィロビーのために整えたという。

この資料がGSのニューディーラーたちを倒す武器になったのを思い合わせると、光子らが厚遇された理由が分かるのである。

ウィロビーは200名に達する日本人を雇い入れて、それを荒木光太郎の監督下に置いた。

この連中のうち15名は陸海軍の上級将校で、これら郵船ビル班は戦史を編む名目で記録を掻き集めた。

追放されるべき軍人の一部はGHQに雇われたが、特高(特別高等警察)の者も雇われている。

マーク・ゲインの『ニッポン日記』では、彼が山形県酒田に行った時のことを書いている。

「警察署長は言った。
 この警察にも特高係があり、係長は県庁から来た人でした。その男は追放されたが、
 米軍に雇われて日本人との連絡係になりました。

 この警察には6人の特高がいましたが、3人は米軍の仕事をしています。」

ロバート・B・テクスターの『日本における失敗』にもこうある。

「1946年、ある県のCIC隊長は私に、『最も重要な部下は日本の秘密警察の
 元高官だ』と云った。
 そのCIC隊長は、『この部下は県下に起る一切を知っている』と驚嘆していた。」

つまり追放された特高組織は、いつの間にかG2傘下のCICで再組織されたのである。

GHQのこうした動きを、追放対象になった政治家たちが見逃すはずはない。

彼らはG2とGSの対立に眼を付け、GSが主導する追放を免れるには、対立するG2に気に入られてGSを倒すことだと考えついた。

こうして大物は裏工作を始め、GHQの公職追放は無力な小物を罰し、狡知に長けた大物を跳梁させる結果となった。

狙われて公職追放になった政治家の1例として、鳩山一郎を挙げよう。

『鳩山一郎回顧録』は次のように書いている。

「マーク・ゲインなどが『世界の顔』をタネに僕を虐めたが、問題になる所を前後の
 連絡もなく切り抜き、英訳して記者団に配ったものだ。

 それで記者団が僕を散々にやっつけて、僕を追放に持って行ったと思う。」

『世界の顔』は、一郎が書いた本で、そこでヒットラーやムッソリーニを褒めていた。

これを取り上げて追放に持って行ったのはアメリカ新聞記者だといわれている。

ゲインは一郎をプレスクラブに呼び出し、この本をネタに吊るし上げをやった。

ゲインの『ニッポン日記』から抜粋しよう。

「私は政治的な審査会を組織した。被告は鳩山だ。

 鳩山がヒットラーとムッソリーニを訪問した後に書いた1938年の本の翻訳を、
 GHQの或る将校たちが私に呉れた。

 その将校たちは、この本で鳩山を追放しようと試みたが失敗していた。
 そこで翻訳を私にパスしてよこした。

 私はこの本を引き裂いて、アメリカ特派員たちに分担させた。

 特派員が「ヒットラーは心底から日本を愛している。ヒットラーの信頼を裏切らぬ
 ようにせねばならない」との一節を持ち出して、詰問した。

 我々が『世界の顔』以外の資料も引用していくと、鳩山はすっかり怯えきった
 一老人と化した。

 明日の新聞の見出しが愉しみだ。」

『世界の顔』は、実は山浦貫一の代筆であった。

明らかに、これは云いがかりで鳩山一郎を追放したのである。

当時(1946年)の政局で、一郎は社会党と連係するつもりだった。

ところが社会党は92議席を取っていて、申し出を受けなかった。

幣原首相は、楢橋・書記官長と犬養健・進歩党幹事長らのバックアップで、進歩党の総裁になることに決まった。

一郎は進歩党と連係する気はなかったので、楢橋とGHQが加担して一郎を追放したようだ。

平野力三もGSに睨まれて追放されたが、『日本週報31.4座談会』にはこうある。

「ケージスの失脚で止めを刺したのは、平野の奥さんなんだよ。

 1949年だったと思うが、第8軍司令部からハドソン大佐が参院議員だった
 平野成子を訪ねてね。『ケージスを日本から追い出したいが、いろいろ証拠が
 あるが署名する者がない。ミセス平野に署名してもらいたい』と言ってきた。

 奥さんはその場で署名しちゃったんだ。」

GHQにはリーガル・セクション(LS)と呼ばれた法律局もあり、ここから特審局が生まれた。

特審局は、1945年9月に内務省に設けられた調査部から発足している。

46年に局に昇格したが、その後に解散し総理庁内事局第2局となって萎縮した。
これは内務省解体のマッカーサー命令があったためだ。

48年に司法省が法務庁となった時、第2局は「特別審査局」となって法務庁の所轄に入った。

特審局の仕事は、「軍国主義の除去、民主主義に対する妨害の排除」だった。

初代の局長は滝内礼作で、彼は赤のシンパと見られていた。

これで分かるようにGSと近く、GSの政策(公職追放)を実行する機関だった。

ニューズ・ウィーク誌の47年6月13日号で、同誌の東京支局長コンプトン・パケナムは書いている。

「追放の範囲はマッカーサーが決めるものだったが、彼はGSのホイットニーに
 これを委ねた。

 ホイットニーは追放の施行細則を作り出し、日本政府はそれを政令として出す
 ように強要された。

 東京にいる多くの米人は、GSの共産党同調者がそのイデオロギーを追放の
 中に注ぎ込んだと信じている。」

のちに天然資源局となったNRSは、元は部であった。

ここのラデジンスキーが農地解放をやったが、後に共産化だとされて非難された。

G2のウィロビーが厚遇していた荒木夫妻のグループ「歴史課」は、ゾルゲの資料を集めた。

G2はCICを使ってシラミ潰しに調べ、ゾルゲを尋問した検事が吉河光貞であることを突き止めた。

G2に出頭した光貞は、ゾルゲの打ったタイプ(文書)を持っていた。
これを使って『ウィロビー報告』が作られたが、この報告書はGSに打撃を与える武器となった。

報告書では、ゾルゲのスパイ活動がいかに日本の作戦を狂わせたかを述べ、スパイ伊藤律の名が初めて出た。

光貞は左翼通で、彼が滝内礼作の後継で特審局長に就いたのは1950年だが、GHQの政策大転換の影響があった。

マッカーサーの側近は、揃って無能であった。

テクスターの『日本における失敗』は述べている。

「GHQ上層部の無能と無経験は、常則だった。

 実例をあげると、経済科学方面を担当した少将は、生涯を砲兵隊で送ってきた者だ。

 GSトップの少将も、歩兵将校で、地方民事行政官の経験はない。

 教育いっさいを担当していた中佐は、南部州の無名の中等学校の前管理人に
 すぎなかった。」

ウィロビーも、のちの朝鮮戦争で中国軍の実力を過少評価し、敗戦に導いた人物である。

ウィロビーは粗暴で、1日に3度命令を変えても平気だった。

ホイットニーは一切をケージスに任せて遊んでいた。

マーカットは会議の席で初歩な経済用語についてトンチンカンな質問をして皆を呆れさせた。

(2019年7月7&14日に作成)


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