(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)
帝銀事件の犯人は、最高裁の判決で平沢貞通に決定した。
そして法務大臣の捺印があれば、いつでも絞首台に上る運命となった。
弁護人側からは、たびたび再審の要求などが出されているが、悉く却下されている。
私は昨年(1959年)に、文藝春秋に「小説・帝銀事件」を書いた。
平沢犯人説に疑問を抱いていた私は、この小説でその疑問をテーマとした。
小説とはいいながら、殆どフィクションは挿入せず、様々な資料を扱っている。
この小説で私が書きたかったのは、『帝銀事件の捜査が、途中で1つの壁にぶつかり、急旋回した事』である。
帝銀事件の最高裁判決は、殆ど第1審の判決をそのまま通過させたと云ってよい。
平沢貞通を犯人にしたのは、彼の自白である。
この事件は1948年1月26日に起きたが、この年の秋に刑事訴訟法は旧法から新法に変わった。
だから、いわば旧法の最後の事件であった。
旧刑事訴訟法では、本人の自白は証拠と見なされる。
しかし新法では他の証拠がなければ、不利となる自白は証拠と見なされない。
帝銀事件では、物的証拠が薄弱だった。
兇器(毒薬)にいたっては、どこから入手したのか定かでない。
判決書では毒薬は「青酸カリ」となったが、果たして青酸カリであったかの厳正な判断は下されていない。
検事側が他に挙げた物証は、「松井蔚の名刺」「強奪した小切手の裏書の筆跡」「アリバイの不成立」「事件後に被告が入手した金の出所不明」「面通しによるその人相」などである。
犯人が帝銀を襲う前年、1947年10月14日に安田銀行・荏原支店で使用した松井蔚の名刺は真正であった。
また平沢貞通がその年の春に、青函連絡船の上で松井博士と名刺交換を行っている。
だからといって、貞道のもらった名刺とは断定できない。
松井蔚は名刺の交換先をいちいちメモしていたが、それでも17枚の行方不明の名刺が出ているのだ。
小切手の裏書の文字も、筆跡鑑定人の1人は「平沢貞通のものではない」と云っている。
こういった事は、「小説・帝銀事件」ですでに云い尽くしている。
これから書くのは、『なぜ警視庁の捜査の主力が途中で急旋回したのか、捜査が突き当たった壁とは何か』である。
まず帝銀事件について簡単に書こう。
1948年1月26日の16時頃、帝銀・椎名町支店に現れた中年男は、腕に東京都のマークの付いた腕章を付けていた。
そして「近所に集団赤痢が発生したから、進駐軍の命令で全員に予防薬を飲ませる」と云い、吉田武次郎・支店長ら16人に毒を飲ませた。
その時の模様は、生き延びた吉田武次郎が供述している。
「16時頃、業務を終えて事務処理していたところ、45~46歳の背広を着て左腕に東京都の腕章を付けた男が入ってきて、名刺を出しました。
腕章には、達筆で防疫消毒班と書かれていました。
名刺には、東京都衛生課ならびに厚生省厚生部医員、医学博士とありましたが、名前は記憶しておりません。
その男は、こう云いました。
『4名の集団赤痢が発生し、GHQのホートク中尉に報告された。
中尉はお前が一足先に行けと云い、来て調べてみたところ、赤痢の出た家の同居人がこの銀行に来たと分かった。
消毒班が来る前に、予防薬を飲んでもらう。』
その男は、さらに云いました。
『これはGHQより出た強い薬で、非常によく効く。
私が飲み方を教えるから、私がやるようにして下さい。
薬は2種あって、最初のを飲んだ後、1分してから次のを飲むように。』
男は小さいビンを取り出し、スポイトを出して少量ずつ湯呑みに分配し、最初の薬を舌を出してその中へ巻くようにして飲んで見せました。
行員は、それを見習って飲みました。
その薬は非常に刺激が強く、胸が苦しくなってきました。
そうして1分して第二の薬を飲みましたが、皆がばたばたと倒れて、私も意識が分からななくなりました。」
この供述中のホートク中尉は、後にホーネット、またはコーネットと云ったように思うと改められた。
行員16人のうち、生き残った4人以外は死亡した。
湯呑みは全部で16個で、犯人が使ったものは発見されなかった。犯人が持ち去ったと考えられる。
生存者の証言では、2回目に飲んだものは水だったから、1回目に毒薬を飲んだわけだ。
毒薬については、東大理学部・化学研究所が分析を行った。
そして少量の青酸が検出された。
西山技師は「第1薬は青酸カリに類するもの、第2薬は水らしい」と報告した。
結局、毒物は青酸カリ、又は青酸ナトリウムと推定された。
帝銀事件が発生して後、他の銀行でも似た未遂事件があったと分かった。
1週間前の1月19日の15時5分ごろに、新宿区下落合の三菱銀行・中井支店に帝銀事件の犯人に似た男が訪れた。
男は厚生省技官医学博士・山口二郎との名刺を出し、「都の衛生課から来たが、集団赤痢が発生したので進駐軍が消毒に来た」と云った。
この時は小為替1枚を消毒しただけで去り、銀行は警察に届けなかった。
さらに前年(1947年)の10月14日の15時過ぎにも、品川区平塚の安田銀行・荏原支店に似た男が現われ、厚生技官医学博士・松井蔚の名刺を出した。
そして同じように集団赤痢の話をし、支店長ら行員に薬を飲ませて去っていった。
この時の薬は実害がなかったが、荏原署に届けたので松井蔚の名刺が保存された。
帝銀事件では、2日後の1月28日に小切手が盗まれていたと確定したが、その小切手は犯行翌日に安田銀行・板橋支店からカネに換えられていた。
振出人は森越治で、金額は1万7450円。
裏書には「板橋3の3661」と犯人の筆跡があった。
裏書人は後藤豊治だが、これは本人が名前だけ書いていた。
カネを取りに来た人物も、3つの銀行に現れた犯人と一致すると見られた。
そして全部で4つの銀行に現れた男の特徴は、言葉に訛りがない、服装や態度が田舎臭くない、現場の選び方が垢抜けているので、都内在住者と思われた。
ここで、捜査当局が全国の警察署にあてた、「帝銀事件の捜査要綱」を書いておく。
これを読むと、捜査当局の考えていた犯人像が分かる。
一、
都庁、区役所の衛生課、防疫課、保健所、病院など、医療や防疫関係者で、松井蔚または山口二郎の名刺を受けた者。
二、
次の者から、似た人相を物色すること。
①医師、薬剤師、化学や薬学の研究員、薬品の製造または販売人
②進駐軍に雇われた者
③銀行員の経験ある者
④防疫に従事した者
⑤旧日本軍の医療の心得ある者
⑥病院や薬局で青酸塩類を入手できる者、ならびにこれの工場に出入りする者
さらに捜査当局は、一連の事件の共通点を発見して、通告している。
①犯行場所
3件とも、都心を離れた焼け残りの地にある、小規模の銀行である
②犯行の日時
1回目は火曜日。2、3回目は月曜日である
時刻はいずれも閉店後の残務処理中で、一般人の出入りしない時である
③扮装
左腕に、東京都防疫班、消毒班などと、毛筆で墨書した腕章を付けている
④名刺の使用
厚生省技官の松井蔚および山口二郎の名刺を使用した
捜査当局は、帝銀事件の2か月後に、次の文を捜査要綱に加えて、「軍関係」を強調した。
一、
薬学、理化学系の学歴や職歴の者を物色すること。
二、
軍関係の薬品取り扱いの学校や研究所、これに付属する部隊。
もしくは憲兵や、特務機関にいた前歴を有する者を物色すること。
これが事件から5か月後の6月25日になると、捜査はいよいよ追い込み状態となった。
刑事部長の出した捜査指示書は、極めて示唆に富むものがある。
「帝銀事件はこのほど、大幅な捜査線の圧縮を果たし、新たな方向に移行した。
軍関係を犯人の最適格とするゆえんは、犯人が毒物の量と効果に強い自信を持っていたと認められる点である。
使用の毒物は青酸化物溶液であって、濃度は5~10%。
1人1人に与えた量は5ccである。
1人1人に与えた量を推算すると、致死量すれすれに当たる。
犯人がスポイトで正確に各自の茶碗に注いだ点を勘案すると、薬の量と効果に対する深い自信が看取せられる。
さらに犯人は、毒薬の効果時間に深い自信を持っていたと認められる。
もし効果が遅れれば、被害者が屋外に逃げて救いを求める危険がある。
犯人の所持していたスポイトは、駒込型といい、細菌研究所または軍関係研究所で使われる。
犯人は16人も一挙に毒殺しようとしたのに、あまりに落ち着いていた。
薬を注ぐにも、計るにも、手先ひとつ震わさなかった。
以上の点から、捜査を軍関係に移行している。」
これが、捜査当局の考えていた犯人像である。
この各項を読めば、推測の合理性は見事である。
ところが8月10日に、平沢貞通を犯人として逮捕状が出て、貞通は北海道の小樽で逮捕された。
帝銀事件は、しばらくは本筋に向かっていた。
捜査要綱の中では繰り返し、「復員の陸軍衛生関係の公算が大」と述べている。
全国の警察が調べた5千人の容疑者は、いずれも医薬関係者であった。
しかし、平沢貞通だけは医薬関係者ではない。
彼は一介の画家であった。
彼が逮捕されたのは、人相が手配書と似ていたからに過ぎない。
裁判では毒薬は「青酸カリ」と独断したが、貞通がどうやって入手したか分かっていない。
彼の自白によれば、薬剤師の野坂某より16gの青酸カリをもらったと云っているが、野坂はすでに死亡していて確認できない。
まして毒薬が青酸カリであった決定的な証拠はない。
また、スポイトについては「駒込型」と分かっていたのに、検事は万年筆のスポイトを使ったと決めつけている。
青酸カリを飲むと、15~16秒で絶息するという。
ところが帝銀事件では、第1薬を飲んだ者が、1分間をおいて第2薬を飲み、さらに倒れるまで数分の余裕はあったようである。
青酸カリでは考えられない遅効性であった。
「犯人は薬を飲ませる時に落ち着いていて、経験者である印象を受けた」との証言があるのに、なぜ未経験者の平沢貞通になってしまったのか。
警視庁は明らかに壁にぶつかったのである。
捜査当局は、当然ながら毒物の究明に力を尽くしたと思う。
そして旧陸軍の研究所で製造されていた、アセトンシアンヒドリンに極めて類似すると分かったであろう。
これは戦時中に軍が極秘に研究・製造していたもので、「ニトリール」と呼ばれていた。
ニトリールは、神奈川県稲田登戸にあった第9技術研究所の田中大尉によって発明されたと云われている。
さらに満州では731部隊が活動していて、石井四郎・中将の下で様々な細菌兵器が研究されていた。
捜査要綱にも、こうある。
「軍関係の研究者および特務機関員、憲兵などを最適格と見なすが、これまでの捜査経験によれば大部分の者は現在、医療・防疫・薬品関係に就職している。
なお、本部において発見した関係者名簿を添付する。」
ここで注目したいのは、731部隊や第9技術研究所のメンバーは、GHQのPHW(公衆衛生課)関係にも密かに雇用されていた事である。
そしてその関係の長が、731部隊の長だった石井四郎・中将であった。
731部隊の者は、ソ連に捕まった者は戦犯として裁判にかけられたが、日本に帰還できた石井四郎らは米軍から戦犯に問われなかった。
そればかりかGHQに雇用されたのである。
もし帝銀事件の犯人が、GHQに雇われた細菌兵器の関係者だとすると、それが分かるとアメリカが細菌兵器を研究していると明らかになる。
だからGHQが捜査を押さえたのではないか。
平沢貞通がクロと世間から思われるようになったのは、彼の日本堂詐欺事件の前歴が暴露されたからだ。
しかし考えてみると、日本堂事件は単なる小切手詐欺事件である。
詐欺犯には殺人という残虐な行為はできない、というのが熟練の捜査員の常識だが、世間ではそうは見ない。
帝銀事件の犯人は、眉一つ動かさずに冷静な手つきで薬品の分量を計り、殺人を行った。
そして陸軍研究所で使用されていた「駒込型スポイト」を使った。
実演で見せた薬の飲み方も、とうてい素人の技と思えない。
薬を自ら見本として飲みながら、自己に実害を与えなかった事も、繊細な技術を要する。
帝銀事件の時は、近くの相田小太郎という家で、実際に疑似発疹チフスが発生していて、米軍のジープが来ていた。
犯人にとって、伝染病の発生が条件の1つだった。
だから捜査当局も、「犯人は衛生関係の情報を知り得る立場にあった」と云っている。
だが伝染病の発生は、都の衛生局からGHQ公衆衛生部にも報告されていた筈である。
犯人は一連の事件の中で、パーカー中尉、コーネット中尉の名前を使っている。
調べてみると、それは実在の人物だった。
捜査要綱は云う。
「犯人が現場で云った中尉の名には、パーカー及びコーネットがあったが、いずれも実在し且つ防疫に従事した事実がある。
犯人はこれに関係を持つ者との推定で捜査中である。」
以上の事から、犯人は米軍に雇用された細菌兵器関係の旧軍人または軍属と、推量していいのではないか。
平沢貞通の弁護士は、「57歳の平沢が長靴をはいて現場まで僅かな時間で到着する筈がない」と論じている。
私が思うに、犯人は米軍のジープで来て、それを目立たぬ所に置き、あとは銀行(犯行現場)まで歩いてきたのではないか。
服装は、上から私物のオーバーを被ればいい。
事実、行員は「(犯人は)オーバーを着ていた」と云っている。
もし追いかけられたら、ジープまで走っていき、それで逃走する。
当時、米軍のジープは黄ナンバーであって、日本の警察も迂闊には手を付けられなかった。
ジープといえば、襲われた帝銀の近所にある相田小太郎方に来ていたジープも、もっと研究する必要がある。
このジープは、相田宅に疑似発疹チフスが起こって、その消毒に都の衛生職員と米軍人が来たのだが、そのチフスは集団発生ではなかった。
ただ1軒に伝染病が発生したからといって、わざわざ米軍人が来るだろうか?
しかもジープに同乗して来たのはアーレンという軍曹であった。
DDTを撒布するといった大仕掛けな消毒でもないのに、軍曹が来た事実は、もっと考究されてよい。
更に、犯人が口にしたパーカーとコーネットの両中尉は、事件捜査中に帰国転属になっている。
防疫担当だったこの2人は、なぜか転属となり日本を去った。
平沢貞通のアリバイに関係のあるエリーという軍人も、同じく帰国転属になっている。
帝銀事件の日、エリーは平沢宅に遊びに来ていて、平沢貞通の帰宅を夕方に迎えている。
これが証言されると貞通のアリバイが成立するが、本国へ転勤になってしまった。
弁護側はアメリカにいるエリーの証言をとる申請をしたが、裁判所は却下してしまった。
私の想像では、犯人はGHQのG3に所属する石井機関のメンバーで、旧日本軍でニトリールのような毒物を使用しうる立場にあった。
捜査が進むとG3の秘密作戦が明らかになるので、GHQが打ち切りに動き出したのだろう。
GHQが隠したかったのは、CBR計画のC項(細菌)における石井機関の作業だった。
そこに警視庁の非主流派の居木井・名刺班が、北海道から平沢貞通を捕まえてきた。
貞通はコルサコフ氏病にかかって精神に錯乱をきたしていて、検事の取り調べで自白を強要され、落ちてしまった。
GHQに幸いしたのは、貞通に日本堂詐欺事件の過去があり、世間がクロと見たことである。
帝銀事件で使われた毒物が、日本軍の創ったアセトンシアンヒドリンに似ている事は、弁護人側も分かっていた。
それで弁護人は、第9技術研究所にいた伴繁雄・中尉を証人として出廷させることを申請した。
伴繁雄は、アセトンシアンヒドリンを軍が上海で実験したのに立ち会った、と云われている。
検事は却下したが、その時に「そんな事をするとGHQの壁にぶつかりますよ」と云ったという。
上海で行った実験とは、中国人の捕虜にしたもので、場所は上海の特務機関の一室だった。
1943年10月のことで、捕虜たちは連行され、「君たちの居た収容所で伝染病が流行している。それで軍医が予防薬を持ってきた」と説明された。
そして軍医に化けた第9技術研究所の者が、「飲み方を指示する。第1薬をまず飲む、すぐ後に第2薬を飲む」と云って飲んでみせた。
飲んだ捕虜たちは、5~6分経つと昏倒し絶命した。
この薬の使用目的は、敗戦時の自決用としても考えられたという。
つまり、飲んですぐに断末魔を見せたら、後の者が飲む勇気を失うので、5~6分の猶予をおくように作られたというのだ。
731部隊や100部隊は、狙った者や場所に細菌を撒布していた。
場合によっては、事後に死体を運び出して、解剖・調査していた。
この作戦に従う一般兵は、目的を知らされない事が多かった。
この細菌戦に詳しい、関東軍細菌部隊にいた高橋・軍医中将は、ソ連の裁判所で次のように供述している。(日本週報 第456号から)
問
あなたは第100部隊の細菌戦の態勢について、関東軍司令官の梅津美治郎・大将に報告したか。
答
しました。設備や細菌の増殖状況について。
問
梅津は何と答えたか。
答
非常に満足した、いっそう努力してくれと。
問
第100部隊の年間の細菌生産量は。
答
炭疽菌1000kg、鼻疽菌500kg、赤痢菌100kg。
問
第100部隊が興安省に派遣された任務は何か。
答
河川、貯水池、牧地、家畜頭数の調査。および季節による家畜の移動調査。
梅津大将は、私に次のように語った。
対ソ戦が始まり日本軍が退却するならば、その際に北興安省の家畜すべてを伝染病に感染させ、敵の戦力低減を図るのだと。
問
山田乙三・大将が関東軍司令官になってから、あなたは第100部隊の業務を報告したか。
答
3回にわたって概略を報告した。「同じ方針で続行するように」と命じられた。
問
あなたは第100部隊で、人体実験が行われた事を知っていたか。
答
聞いていた。しかしコレラの実験は聞いてなかった。
問
細菌戦の準備はソビエトを目標としたのか。
答
その通りである。
この細菌技術を、GHQは旧日本軍の関係者を雇うことで、著しく進歩させたと云われている。
今では殆ど定説になっているが、朝鮮戦争で米軍は専らこの細菌作戦を採ったという。
だが、アメリカでも細菌戦の研究は早くから進められていた。
1946年のG・W・マークの報告がある。(マークは細菌兵器委員会の委員長で、その功で陸軍長官になっている)
この報告によると、細菌兵器の研究の中心はアメリカ陸軍化学研究所で、「特殊計画部」がメリーランド州フレデリック市の近郊にある「キャンプ・デトリック」に設けられた。
ここで第二次大戦中に3600人が働いた。
アメリカ海軍も、カリフォルニア大学の中に、直属の細菌兵器の研究機関を持っていた。
1951年3月にアメリカ衛生研究所のヘース所長は、「微生物の砲弾と爆弾がすでに完成し、使用できる」と発表した。
これに関する記録には、次のように記されている。
「米軍が細菌戦をやり出したのは、1950年に国連軍が北朝鮮から退却する際だった。
米軍は退却時に通過した、平壌市、平安南道、平安北道などに細菌をばら撒き、そのために天然痘が流行して、51年4月までに3千5百件を数え、1割が死亡した。
江原道では1126件、咸鏡北道では817件、黄海道では602件で、米軍が通過しなかった地域には発生しなかった。」
また1951年3月にも、米軍は元山港にいた際に、細菌兵器用の第1091号上陸用舟艇の内で、捕虜に人体実験をやったという。
ニューズウィーク誌の4月9日号はこの事に触れ、「ペストが蔓延して国連側(米軍側)にも広まる可能性があった。この上陸用舟艇には研究設備と実験用動物が乗せられていた」と報じている。
上に述べた細菌舟艇は、その後に巨済島でも捕虜収容所で実験を行ったと、当時のAP通信は報じている。
「毎日、3千人に実験を行い、そのために11.5万人の北朝鮮捕虜のうち、1400名はひどい伝染病に侵された。
80%はある種の疫病に感染した。」
1952年2月24日に、中国の周恩来は抗議声明を出し、こう述べている。
「(1951年)2月29日から3月5日までの間に、米軍機が68回も東北地区(満州)の領空を侵犯し、細菌の付いた昆虫をばら撒いた。
蠅は普通よりも色が黒く、頭が小さくて、羽が倍も大きく、毛が多い。
ノミも色が黒く、背が高い。
クモは茶褐色だ。
これらの昆虫は厳冬でも生存できる。」
北京において国際科学委員会が発表した『細菌戦黒書』(片山さとし訳)は、データを詳しく載せている。
帝銀事件に使用された毒物は、単純な青酸カリではなかった。
旧陸軍が製造した毒物の可能性が強い。
恐ろしいのは、その毒物や細菌がアメリカの手に渡ったことである。
帝銀事件に使われた正体不明の毒物は、日米新安保条約にうたわれた「細菌学職」を連想させる。
日本政府は「細菌学職」について平和利用だと説明しているが、通りいっぺんの体裁で偽装とごまかしを感じる。
問題は、それがアメリカから要求されたものであり、やはり戦争と結び着くことだ。
(2019年8月17日~19日に作成)