鎌田機関、児玉誉士夫、岸信介

(『歴史読本 秘められた日米関係史』岩川隆の記事から抜粋)

CIAがらみで私が取材したものの中に、『鎌田機関』がある。

ウォーターゲート事件で捕まった元CIA幹部のハワード・ハント。

ハワード・ハントは、ロッキード社が児玉誉士夫に支払う金の工作機関となったディク社の社長、ニコラス・L・ディークとはOSS(CIAの前身)時代に同じ第202部隊に所属していた人物である。

(※この金の動きがバレたのがロッキード事件である)

ハントの著書に『大統領のスパイ』がある。

そこでは、こう述べている。

「私は1954~56年は日本に滞在し、表向きは極東司令部の陸軍民間顧問部の職員とされていたが、実際にはCIAの北アジア司令部・秘密作戦主任であった。

私が東京に来る数年前から、数百万ドルを注ぎ込んだ政治工作が進行していた。

私はその進行状況を調べ、管理している担当官6人に面接した。

元々このプロジェクトは、東京のさる老サムライとその息子が考え出したものだった。

彼らは、米軍の占領当初からCIA(その頃はまだCIAは無いので、OSSの事だろう)と接触していた。

彼らの提案は、『我々に金を渡せば、新聞社や学生活動家や反共労組にわたりをつけてやる』という話だった。

調べてみて驚いたのは、父も息子も受け取った金に領収書を発行していない事だった。

領収書を伴わない支出は、CIAの正常な経理ではない。

そこで突っ込んで調査した結果、数年にわたりサムライの請求金額とその実績に相関関係がないと分かった。

プロジェクトにアレン・ダレスCIA長官の息がかかっていると聞いたので、ダレス長官が来日した際に問いただした。

するとプロジェクトは知っているが特別な感情はないと言う。

そこで父子への資金提供を打ち切った。」

上に出てくる老サムライとは、元陸軍中将の鎌田銓一である。

鎌田機関については、かつて発表(『潮』昭和51年5~8月号)したので詳述はさける。

鎌田銓一は、陸軍士官学校の第29期生である。

1932~34年にはアメリカのイリノイ大学とMITに留学し、工兵連隊(フォルト・デュポン工兵第1連隊)付の少佐として勤務した事もある。

帰国後は満州関東軍の野戦鉄道司令官となり、北支・大陸鉄道参謀長もした。

第1総軍司令部付で終戦を迎えた。

彼はアメリカ留学中の工兵連隊に居た時、陸軍の参謀総長だったマッカーサーと友人になった。

このため日本が敗戦すると、マッカーサーの知己だというので、陸軍士官学校で同期の有末精三の推薦もあり、厚木飛行場に来る進駐軍を出迎える役を任された。

以後の銓一は、占領軍に出入り自由の最高級フリーパス証を与えられ、銓一の家は占領軍の高官を接待する「御殿」となった。

そして占領軍に取り入ろうとする日本人たちは、「鎌田機関」に日参する事になる。

私が銓一の未亡人に取材すると、「大手建設業の社長さん方や、若い頃の森脇将光や小佐野賢治らが日参してました」と語った。

さて話は変わるが、マッカーサーはCIAを嫌悪していた。

その原因は、太平洋戦争中にOSS(CIAの前身)を率いるドノバン将軍と対立した事だという。

1949年まではマッカーサーは、GHQ内にCIAが浸透するのを許さなかった。

ワシントンの指揮下にあるCIAは、やむを得ずフィリピンを拠点に活動していた。

GHQでは、情報収集や謀略工作を遂行する組織として、日本各地にCIC(対敵情報部)を置いていた。

各CICの総括部局として、CIS(対敵情報局)も置かれていた。

これらの組織を手中にしていたのが、G2のウィロビー少将である。

したがって当時の日本国内にはマッカーサー支配下のCICと、本国ワシントン支配下のCIAが、重なり合って活動していた。

私が知っているS氏(元特務機関員)も、ある時まではCICの下で活動し、ある時からはCIAの下で活動している。

付け加えると、駐日アメリカ大使館の職員は、かなりの人数が実はCIA職員である。

タッド・シュルツ記者がニューパブリック誌で書いた記事には、こうある。

「日本の右翼分子と初めて秘密の接触を確立したのは、マッカーサー配下の情報武官で、1948年であった。

その接触の始めに使われたのが、児玉誉士夫だった。

戦犯として3年の服役を終えて出所した誉士夫は、アメリカ情報当局に目を付けられた。

岸信介ら、日本政界を動かす潜在力を持った人物たちとの繋がりが、とりわけ注目された。

誉士夫らを通じて情報収集網が作られ、服部卓四郎・元大佐らも、これに加わった。」

上でいう情報武官とは、チャールズ・ウィロビーのことであろう。

だが岸信介の場合は、ニューズウィーク紙の人々との密接な繋がりを見ると、ウィロビー筋よりも前にCIA筋と繋がったと思われる。

(※CIAなどの情報・謀略機関の職員は、新聞記者や旅行記者の肩書きを表向きにしていることもある。
ニューズウィーク紙はCIAとの繋がりが深いのが、様々な証言で明らかになっている。)

CIAが東京支局を置いたのは1949年で、この時にCICはCIAの統制下に移された。

タッド・シュルツの記事には、こうも書いてある。

「児玉誉士夫は、CICから引き続いてCIAにも仕え、平和条約の発効後は在日アメリカ大使館と密接な関係を保った。

この時期、アメリカは日本の反共団体に多額の資金を与えていたが、誉士夫らはしばしばCIA資金を配布するチャネルになっていたと、インテリジェンス筋は証言している。

1950年に児玉誉士夫は、タングステンを中国大陸から日本へ密輸入する仕事を請け負って、CIAから15万ドルを受け取った。

だがタングステンを積んだ船が途中で沈没したと報告。もらった金は返さなかった。」

同じ頃にニューヨーク・タイムズ紙の載った、アン・クリッテンデンの記事も見よう。

「ロジャー・ヒルズマンがケネディ政権で極東担当の国務次官補に就いた時、彼は『アイゼンハワー政権下で、CIAから日本の複数の政党に資金が供与されていた』との説明を受けた。

また、元情報要員によると、岸信介首相が再選された1958年の総選挙では、CIAが大掛かりな資金投入工作をしたという。」

この記事に対して、当時の自民党幹事長だった中曾根康弘が猛烈な抗議文を送りつけたといういきさつがある。

だが、ここに「岸信介」の名が登場する事に興味をおぼえる。

巣鴨プリズンから出所してきた信介は、あれよあれよという間に首相の座に着いた。

ライバルが次々と死亡した事は偶然にしても、CIA筋の支援があった事は間違いない。

日本の再軍備、講和条約、日米安保条約を推進したのは、ジョン・フォスター・ダレスであった。

そしてその実弟のアレン・ダレスは、CIA長官をしていたのである。

岸政権下の新安保条約の締結は、CIA活動の勝利でもあった。

(2019年11月15日に作成)


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