タイトル秘密結社と孫文

(『龍の系譜』マーティン・ブース著から抜粋)

伝説によれば、「白蓮会」は5世紀初めに、有名な仏僧の慧遠によって創設された。

彼は阿弥陀仏を信仰するコミュニティを設けて、たび重なる迫害を切り抜けて、名称を白陽会や白蘭会に変えつつ生き延びた。

また、他の宗教グループである天地会などと提携した。

天地会は、洪門会とも呼ばれた。

1344年に白蓮会は、韓山童の手で蘇った。

彼は「宋の皇帝の子孫である」と詐称し、「仏の再来が迫っている」と主張して、モンゴル族(元朝)に対して蜂起した。

赤いヘッドバンドをしているので紅巾軍と呼ばれたこの軍は、元朝を揺さぶった。

やがて朱元璋という仏僧が加わり、有能な戦略家だった彼は元朝を倒して、1368年に明の初代皇帝になった。

この新王朝は、光明世界を実現すると白蓮会によって考えられていた救済者にちなみ、明と命名された。

明朝の300年間のほとんどを、白蓮会は冬眠状態ですごした。

白蓮会の名が歴史に再び現れるのは、清朝になって康熙帝が発した勅令である。

その勅令は、仏教、道教と共に秘密結社を禁ずるもので、白蘭会や洪門会が名指しされた。

秘密結社は地下にもぐり、お互いに同盟を結んで、秘密の合図や合言葉を開発し始めた。

白蓮会は姿を消したが、洪門会と合体したと思われる。

1813年の北京の宮殿における宦官の反乱は、白蓮会らが起こしたとされた。

その反乱は、河南省と山東省の蜂起に呼応するものだが、清の軍隊に鎮圧された。

白蓮会は変質するにつれて、「三合会」と改称した。

三合会のメンバーは、世界を天・地・人の統一と見なした。

同会の旗には、三角形が描かれる。

英語で中国の秘密結社を指す言葉、「triads(三幅対)」は、三合会の旗から来ている。

ただし中国人は、上記の秘密結社たちを呼ぶのに三合会とは言わず、個々の結社名を使うか、黒社会と総称する。

洪門会は、多くの結社を合体させる事で出現した。

本格的な組織になったのはおそらく1674年で、1700年にはしっかり根付いていた。

活動の中心は、福建省と広東省だった。
最初はもっぱら宗教活動をしていて、主神は関帝(三国時代の関羽)だった。

洪門会を鄭成功が創設したと考える者もいるが、証明されていない。

中国の秘密結社の真の起点は、清朝の雍正帝(1722~35年)の時代に行われた、少林寺の破壊だった。

少林寺は脅威と見られて、迫害されたのだ。

1761年には乾隆帝が、洪門会、明尊会、白雲会を禁じる勅令を出した。

1796年に始まった反乱は、中国の西部で荒れ狂い、10年続いた。

天地会は、おそらく洪門会を母体にして、「反清・復明」のスローガンを掲げて活動した。

天地会の設立者たちは福建省・漳浦県の出身で、中国南部や台湾に勢力を拡げた。

その活動は、互助的な社会奉仕的なものだが、犯罪に手を染める会もあった。

天地会は時には、天理教や三和会や三江会に名を変えた。
そして海外にも進出し、ジャワ、マレー、インドなどの中国人コミュニティへ拡がっていった。

規模が大きくなればなるほど、清朝は弾圧に力を入れたが、秘密結社たちはさらに深く地下にもぐって、無法化した。

18世紀末になると、外国人の交易商人が、主として英国、仏国、米国の商人が、アヘンを大量に中国に入れ始めた。

彼らはアヘンを、マカオと広州の港に運び込み、中国人の商人がそれを受け取って売った。

この商売に関わることで、天地会などの秘密結社は腐敗した。
強奪、略奪、殺し、誘拐など、何でもありの無法組織に堕落した。

19世紀に入ると、西欧諸国との貿易のために開港する所が増えて、沿岸都市の広州、厦門(アモイ)、福州、寧波、上海、香港へ、大量の移住者が流れ込んだ。

元は農民の移住者たちは、新しい環境で頼れるのは秘密結社だけだった。彼らは群れをなして入会した。

秘密結社に参加する者には、裕福な者も増えてきて、秘密結社が経済の一翼を担うほどになってきた。

これに対する清朝当局の策は、捕らえて処刑することだった。
だが実際には、役人もしばしば結社のメンバーで、犯罪に目をつぶる事も稀ではなかった。

1850年に太平天国の乱が起きた時、秘密結社たちは手を組もうとしなかった。

清朝を倒すチャンスだったのに、動かなかったのは謎である。
すでに「反清・復明」の政治的な志を失っていたのかもしれない。

ジャーディン・マシスン&カンパニー(1828年にイギリス人のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マシスンが創設)などの外国人の会社は、中国での取引は「買弁(コンプラドール)」を通した。

買弁は、便利屋であり、仲介者である。
彼らは外国人に雇われて働くだけでなく、自らのビジネスもした。

何東(1915年にイギリス国王によって最初に貴族に列せされた中国人。ホー・トンという名のコンプラドール)は、出世して18の会社の社長になり、最後には雇い主だったジャーディン・マシスンの大株主になった。

中国の秘密結社たちは、進出してきた外国人の中で、宣教師を危険視した。

宣教師たちは、キリスト教への改宗に努めたが、それは秘密結社たちにとって脅威だった。

なぜなら、自分たちの宗教(教えやルール)に代わるものを提供しており、清朝の保護を受けて活動する清朝のシンパで、自分たちの伝統である先祖崇拝を崩すものだったからだ。

だから結社たちは、宣教師や外国人の悪い噂を流し、アヘン・ビジネスとの繋がりを暴いた。

「斎教」という秘密結社は、悪名が高く、福建省で創設されたもので、薬草や医療にたずさわる者たちから成っていた。

彼らは「薬草によってアヘンの常用を矯正できる」と説いた。

1885年から、外国人とクリスチャンに対する攻撃が起き始め、布教所が襲われ、改宗者が殴られ、教会が焼かれた。

1887年には「太刀会」が、キリスト教へのテロの先頭に立ち、多くの支持者を集めた。

1890年には四川省・龍水のカトリック教会が、3万人の群衆に攻撃された。

太刀会が力を失うと、代わって「哥老会」が台頭した。

1891年の末までに、反クリスチャンの運動は中国全土に広がったが、清朝政府は黙認した。

清朝は、外国人の味方をするところを見られて支持を失うのを恐れたのだ。

秘密結社たちは、布教所を攻撃すれば外国人たちは去っていくと考えていたが、逆効果を生じた。

外国人たちはそれを、中国に干渉する新たな口実にしたからだ。

「義和拳」は、18世紀の半ばに河南省で創設された。

八卦教の流れをくみ、初期のリーダーが劉佐臣だった。

彼らを外国人たちは「ボクサー」と呼んだが、その訳はボクシングに似た武術にはげんでいたからだ。

1895年に日清戦争で、清が完敗した。

すると列強国たちは、さらに清に利権を求めるようになった。

ロシアは満州を経てウラジオストックまで伸びるシベリア鉄道を通す許可を求めたし、大連と旅順の租借も求めた。

イギリスは新界の99年間の租借権を獲得し、多くの条約港を認めさせ、清とビルマの国境を画定させ、中国の鉄道拡張計画への出資を許された。

フランスも、多くの条約港と利権を要求した。

ドイツは、膠州を賃借したいと申し出て、それが拒否されると艦隊を膠州に派遣した。
清は折れて同地の採掘権と鉄道敷設権を与えた。

清では、「日本のようにヨーロッパ流に近代化すれば、侵略されなくなる」との考えが生まれ、改革運動が盛り上がった。

だが西太后が権力を握ると、改革を撤廃し、軍事力ばかり強化した。

1898年8月に、山東省と安徽省で黄河の堤防が決壊して、数万人が溺死し、畑がだめになった。

洪水に続いて疫病のコレラとチフスが発生した。

翌99年は農作物が不作で、いなごの害が中国全土を襲った。

さらに外国の侵略が進み、日本とイギリスが威海衛を占領し、旅順ではロシアが土地を接収した。

1898年5月から、義和拳から「義和団」に名を改めた秘密結社が、山東省で活動を活発にした。

初めの5ヵ月間は、人々を扇動してデモを行い、排外のスローガンを叫ぶだけだった。
だが参加者が増えると、暴動を始めた。

1899年3月に山東省の知事に、袁世凱が任命された。
これは西太后の直々の任命だったが、袁世凱は義和団の暴動を放置した。

1900年5月に直隷省で、義和団がクリスチャン68人を殺す事件が起きた。
しかし清朝当局は何もしなかった。

これに気を良くした義和団は、北部へ押し寄せ、外国の影響を見つけしだい破壊した。
線路が剥がされ、駅が焼かれて、工場が略奪され、電信線が切断された。

さらに義和団は、北京(清朝の首都)に向かって進撃した。

1900年6月1日に、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、イタリア、日本の連合部隊が、北京市内の公使館区を守るために到着した。

北京の南では、外国の影響のシンボルの1つである「北京競馬場」のスタンドが、義和団に打ち壊された。

清朝皇族の醇親王は、清軍に対して、天津に集結している連合国軍が北京へ出発するのを妨げるよう命じた。

6月10日に義和団は、大挙して北京に入り、無秩序が市街を支配した。

イギリスの2129人から成る軍は、6月11日に天津を列車で出発し、北京へ向かった。
しかし義和団に待ち伏せされて足止めとなった。

北京市は義和団に支配され、外国人たちは公使館区へ疎開した。

義和団はキリスト教徒を虐殺し、イギリス、アメリカ、日本の領事館を警備する兵がそれを見つけ、義和団員46人を射殺した。

西太后を議長にして、有力顧問の会議が開かれた。
そして義和団を支持する事を決めた。

命令が出されて、強壮な義和団員は全員、清軍に編入される事になった。

西太后は「外国の外交官は中国を離れよ、さもないと軍事力が及ぶ」と告げた。

欧米と日本の侵略を敵視していた西太后は、6月21日に外国人に対して宣戦布告し、義和団も参加した。

北京の外国人たちは、6月18日から55日にわたって包囲された。

とうとう1万7千人の多国籍軍が北京に到着して、義和団を打ち破り、紫禁城(清朝の宮殿)に侵入して略奪をした。

義和団が多国籍軍に敗れたのは当然だった。
彼らの大半は刀と槍で武装しており、近代的なライフルを持つ者も使い方を知らなかった。

西太后は西安に逃げた。

1901年9月7日に、清と列強国の間に和平条約が結ばれた。

清政府は40年間に銀4億5千万両(6800万ポンド)の賠償金を支払うことになった。

加えて多くの通商権を認めさせられ、事件の再発を防ぐという名目で北京に外国軍が駐留することになった。

義和団は消滅し、宣教師は今までよりも自由に行動できる事になった。

「義和団の乱」は、秘密結社の活動が高まりを見せたもので、秘密結社と政府が同盟したものでもあった。

失敗に終わったが、秘密結社の潜在力を証明し、やがて辛亥革命で重要な役割を演じることになる。

義和団の乱の後は、清朝は弱体化して、学生たちが外国に留学するなど、中国は外国の影響を大きく受けるようになった。

孫文は1866年に、マカオの北、広東省・香山県の自耕自給の農家に生まれた。

15歳上の兄である孫眉は、1870年代はじめにハワイへ移住し、成功していた。

1878年に結婚するため広東に一時戻った孫眉は、12歳の孫文をハワイへ連れ帰った。

文はハワイでイギリス国教会系の学校へ行き、キリスト教に興味を持ち、医者を志した。

眉は弟がキリスト教を学んでいるのに仰天して、中国に送り返した。

中国に戻った孫文は、退屈しのぎと反抗心から、地元の秘密結社である三和会・支部に加入した。

そして武術を習い、ある時に寺院を冒涜したため、コミュニティから追放された。

彼は香港に行き、イギリス国教会の学校へ行き、ついでクィーンズ・カレッジに入った。

18歳の時にチャールズ・ヘイガーというアメリカ人の宣教師によって洗礼をうけ、逸仙という字(あざな)をもらった。

孫眉は、孫文をハワイに呼び戻して、自分の店で働かせた。

しかし文はこれを嫌い、ホノルルの国安会という結社に加わって借金をし、中国へ戻った。

20歳の時に文は、広州の博済病院・付属医学校に入ったが、眉はこれに感心して授業料を払った。

文は、開設したばかりの香港医科大学に移った。

当時の香港は、イギリスが支配する地で、中国における革命思想の温床であり、秘密結社の避難所でもあった。

香港の地で秘密結社は栄え、中国人社会のあらゆる局面を支配していた。

苦力(クーリー)、駕籠かき、行商人、アヘン窟の経営者、売春宿の経営者、商店主などは、秘密結社の保護(支配)を受けていた。

孫文はその香港で、三和会の香港支部に入り、何啓と知り合った。

何啓は医師で、イギリスで教育を受けた弁護士でもあった。

孫文は、同じ医学者の鄭士良と親しくなったが、士良は客家の者で、秘密結社と太い繋がりがあった。

孫文が親しくなったもう1人は陳少白で、それから10年間、孫文の右腕をつとめた。

孫文が交際した者には、楊鶴齢と尤列がいた。

鶴齢は政治結社「中和堂」のボスであり、尤列はそこの幹部だった。

孫文は1892年に香港医科大学を卒業すると、マカオに薬草店・医院を開いた。
しかし当局によって閉鎖させられた。

彼は広州に移って薬局のチェーン店を始め、漢方薬とヨーロッパの薬を売り、簡単な手術もした。

他方で彼は、香港医科大学の実験室で始めた、手製爆弾の製法をマスターした。

しかし当時の彼は、まだ革命家ではなく、官界に入ろうとし、清朝の高官である李鴻章に嘆願書を書いた。

1894年に自分を売り込むため、李鴻章に会いに天津まで出かけた。

その途中の上海で、チャーリー宋という中国人の実業家に紹介された。

チャーリー宋は、ヨーロッパ風の教育を受けたクリスチャンで、流暢な英語をしゃべった。

本名は韓嘉樹といい、海南島の生まれで、幼くしてアメリカへ行き、タバコ長者のジュリアン・カーに育てられた。

1880年11月に洗礼を受けてチャールズ・ジョーンズ・スーン(宋)となった彼は、宣教師になるべく教育された。
そして86年1月にメソディスト派の牧師として中国に戻り、宣教師の仕事を始めた。

チャーリー宋は、ジュリアン・カーの後援で「華美書館」という印刷所を設立し、聖書やメソディスト派の小冊子、英語と中国語の教科書などを出版した。

さらに彼は、上海のいくつかの秘密結社の幹部になった。
その中に、孫文のいる三和会と、有力結社の紅幇があった。

1892年にチャーリーは、布教会を辞職し、共和運動に身を投じた。

紅幇は、上海と長江水系沿いに強大な勢力を持つ秘密結社で、苦力の運用や河船の運航を支配していた。

表面は互助結社だが、内実は犯罪組織である。

その幹部には、商人、上級の官吏、金融業者がいて、上海で成功したければメンバーになるのが近道だった。

やがてチャーリー宋は、紅幇の証明書や機関紙を印刷し始めた。

孫文は短い上海滞在中に、買弁の鄭観応とジャーナリストの王轁に紹介されたが、共に紅幇の上級幹部だった。

孫文は天津に行って李鴻章に会おうとしたが、実現せずに意気消沈して上海へ戻った。

そして宋家に滞在し、革命家としてのキャリアを踏み出した。

1894年の春に、日清戦争が始まった。

清軍が日本との戦争で忙しい今、反乱を起こすチャンスだと孫文は思ったが、まだ準備が整ってなかった。

資金が足りず、支持者もおらず、政治家として彼は無名だった。

そこで彼はハワイに渡り、華僑のコミュニティを作ろうとし、11月末に『興中会』を創設した。

ホノルルに本拠がある秘密結社『致公堂』の幹部である鄧蔭南は、孫文に協力し、革命運動において重要な役割を果たした。

興中会のメンバーは、ほとんどが中国の南東部の生まれで、その地域は太平天国の出生地だった。

孫文は仲間と香港へ行き、革命家の楊衢雲と出会った。

彼らは陰暦の9月9日にクーデターを決行することにした。
太陽暦だと10月26日にあたるが、その日は祖先の墓にお参りして家族が顔を合わせる重陽節だ。

その日に決行すれば、クーデターは明朝の祖先に敬意を表すものと見られるし、祝日なので警備も薄い。

孫文は人手不足に困り、秘密結社の兵隊である「紅棍(下士官)」と「四九(歩兵)」を3千人、雇った。

彼らは香港からフェリーで広州に渡る計画だったが、誰が一番良い銃を取るかで喧嘩を始め、フェリーに乗り遅れてしまった。

そんなこんなで蜂起は失敗し、孫文は女装してマカオへ逃れ、ついで香港に戻った。
彼の16年におよぶ亡命生活の始まりだった。

孫文はこれまで、中国人の服装であるぶかぶかのズボンをはき、頭は辮髪にしていた。

しかし亡命生活に入ると、ヨーロッパ風のスーツに着替え、辮髪も切った。

1896年の春、孫文はハワイにて『致公堂』に紅棍(下士官)として加入した。

もともと広東省で創設された致公堂は、珠江の海賊と盗賊が中心で、太平天国の乱で活躍した。

乱の後にメンバーの多くが海外へ逃げ、大半はハワイと北アメリカに逃げた。
そしてアメリカ大陸で最も有力な結社の1つになった。

孫文はサンフランシスコに行き、アメリカ国内の秘密結社とコネをつけ始めた。

だがアメリカにいるメンバーたちの多くは、中国の政治に関心がなかった。

孫文は自伝で「アメリカでは洪門の諸結社は政治色を失い、メンバーの多くは正しく目的を理解していなかった」と述べている。

孫文はさらにイギリスに渡ったが、清国の公使館に誘拐された。

香港大学時代の恩師ジェームズ・カントリー博士の尽力で解放された。

彼はヨーロッパを回り講演した。

翌97年に孫文は日本に行き、極右の秘密結社「黒龍会」の支持を得て、8年間を暮らした。

清では義和団の乱が始まったが、彼は乱が治まるまで日本に留まった。

孫文は密使を中国に派遣して、河南省と湖北省の哥老会と連絡をとった。

彼が哥老会のメンバーだったという噂があるが、証拠はない。
ただし彼は支持が得られそうならどんな結社にも加わったから、可能性はある。

彼は哥老会の支持を得て、楊衢雲を興中会から追い出した。

一方、孫文の仲間の陳少白と鄭士良は、香港の興中会を再建し、他の結社たちをカネで懐柔した。

つながりを強化するため、少白は三和会に入った。

1899年の冬に、龍頭(結社のリーダー)と呼ばれる哥老会の幹部一行が、香港を訪れた。

陳少白の仲介で、彼らは中国南部の主な秘密結社のボスと会い、興中会との大連合を形成した。

孫文が大連合の総会長となった。
儀式が行われ、ボスたちは忠節と反清朝を誓った。

この大連合は、『興漢会』と命名された。

興漢会は自由な組織だったが、清朝打倒の目的のために秘密結社のように振舞った。

哥老会は孫文に中国の情勢を報告し、文は兵器を買って哥老会に渡した。

そして1900年7月に、恵州で第二の革命が始まった。

蜂起の場所に恵州を選んだのはおそらく鄭士良で、そこは香港の北東100kmにあり、主として客家が暮らしていた。

鄭士良は有能なオルガナイザーで、彼の指導で反乱は東へ拡がり、福建まで北上した。

だが兵たち「食糧を略奪せずに買え」と言われていたため、資金が底をつき始め、蜂起は鎮圧された。

1905年7月30日に東京で、孫文は会合して『同盟会』を創設した。

これは秘密結社ではなく、諸団体の連合体である。

続く6年間、孫文は東アジアと東南アジアを旅して、資金を集めつつ、華僑のコミュニティに共和思想を説いた。

1911年10月に、武昌での暴動から辛亥革命が始まった。

それはたちまち中国全土に拡がった。

革命のための同盟は改編されて、『国民党』と称する政党になった。

1912年1月1日に、中華民国が誕生し、孫文が臨時大総統に就いた。

ただし彼はすぐに、その地位を袁世凱に譲った。

文がポストを退くやいなや、秘密結社たちは袁世凱の支持に回った。

孫文は臨時大総統に選ばれた翌日に、南京で明の皇帝たちの霊に敬意を表して、儀式を執り行った。

「反清・復明」はついに実現した。

その1ヵ月後の2月15日に、文は明の皇帝たちの墓を詣で、清朝が滅んだことを公式に宣告した。
これが彼の短い臨時大総統時代の最後の行為の1つだった。

清朝を倒して中華民国を樹立するのは、秘密結社たちの協力なくしては実現しなかった。

だが後になると孫文は、彼らに感謝せず、自分がメンバーだった事も認めなかった。

秘密結社の幹部たちは、革命に協力した対価として、新政府の要職を与えられた。

役所と軍部で昇進するには、秘密結社のメンバーである事が必須となった。

中華民国は樹立したが、農民たちは貧しいままで搾取され続け、重税に苦しみ、秘密結社に食いものにされていた。

孫文はこの後、袁世凱と戦ったが、宋家との姻戚関係を結んだ。

チャーリー宋には3人の娘がおり、長女の靄齢は抜け目のない相場師で、孔祥煕という財務大臣と結婚した。

次女の慶齢は、1914年に孫文と結婚した。

三女の美齢は、蔣介石と結婚した。

孫文と宋慶齢の結婚には問題があった。
文は、最初の妻と離婚していなかったのだ。

このため文の人気は下がった。

清朝が滅びると、軍閥が割拠する時代となったが、湖南省の軍閥・馮玉祥は変わり種だった。

玉祥はキリスト教徒で、部下の兵士に飲酒・喫煙・アヘンを禁じた。

彼はアヘン常用者の治療をさせたが、こうした政策はもちろん秘密結社(犯罪組織)たちに人気がなかった。

孫文は広州で立ち上がり(政府をつくり)、ロシアの軍事援助を受けて軍事力を強化しつつ、軍閥たちを説得して中国を再統一しようとした。

しかし1925年3月に死去した。

(2021年8月24~29日に作成)


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