日本軍は毒ガスの開発を本格化させ、兵器として制定する
(毒ガスの種類について)

(『毒ガスと日本軍』吉見義明著から抜粋)

第一次世界大戦後の日本は、1920年から不況が長く続き、厳しい経済状況となった。

このため陸軍は22年から、将校1800名、下士官5.6万名を整理する軍縮を行った。

ついで25年にも、陸軍は21個師団のうち4個師団を廃止した。

しかし、これは単なる軍縮ではなかった。

陸軍は軍縮で浮いた予算を、装備の現代化に振り向けた。

その予算配分は多い順に、①飛行機 ②機関銃 ③戦車 ④毒ガスなどの化学兵器 ⑤高射砲 ⑥通信学校の新設 であった。

陸軍省は25年末に、ドイツからメッツナー博士を招いて、毒ガスの開発を進めた。

その結果、次々に毒ガスが化学兵器として制定されていった。

1929年4月に、「ホスゲン(あを1号)」「フランス式製造法のイペリット(きい1号)」「クロロアセトフェノン(みどり1号)」「臭化ベンジル(みどり2号)」「三塩化砒素(しろ1号」が制定された。

「あを」「きい」といった呼称は、本態を隠すための秘匿名である。

ホスゲンは、呼吸器系統に障害を起こし、窒息死させる。

イペリットは、皮膚や粘膜を糜爛させ、眼・呼吸器・消化器を侵す。

症状の発現は遅いが、強力な効果を持ち、地上に撒布すると1~2週間も効力が続く。

被毒をさけるにはガスマスクだけでは不十分で、防毒衣で全身を覆わなければならない。

不純物が混じるとマスタードの臭いがするので、米英では「マスタード・ガス」と呼ばれる。

クロロアセトフェノンと臭化ベンジルは、催涙ガスである。

三塩化砒素は、毒ガスではなく発煙剤で、ホスゲン弾に混ぜて使用される。

(ホスゲンは無色なので、着弾点を確認するため発煙剤を混ぜた)

1933年には、「ルイサイト(きい2号)」「ジフェニールシアンアルシン(あか1号)」が制定された。

ルイサイトは、イペリットと同様の糜爛性ガスで、効力の発現は早いが持久時間は短い。

砒素を含むが、ゼラニウムの花のような芳香があり、致死力が強いので「死の露」とも呼ばれた。

ジフェニールシアンアルシンは、嘔吐性・クシャミ性の毒ガスで、ガスマスクを透過し、それを脱がせるために開発された。

その症状は、ガスが濃いと鼻・喉・胸をかきむしられる様に刺激され、戦闘能力は完全に喪失される。

1936年1月には、「ドイツ式製造法のイペリット(きい1号甲)」が制定された。

この時、「きい1号(フランス式製造法のイペリット)」は「きい1号乙」と改定した。

1937年10月には、「不凍性のイペリット(きい1号丙)」が制定された。

これは、凍結するのを防ぐために開発されたもので、零下30度まで凍結しなかった。

38年4月5日には、陸密・第374号により、「陸軍制式・化学兵器表」が定められ、開発された毒ガスはすべて制式化学兵器となった。

これは、実戦用として正式に採用された事を意味する。

しかし、みどり1号と2号は「もっぱら演習で使うもの」とされて、実戦使用から除外された。

38年8月26日には、「青酸(ちゃ1号)」が制式化学兵器表に追加された。

青酸は、微量で中枢神経と血液に作用し、けいれんや麻痺などを起こす。一定量以上だと即死する。

外気に触れると瞬時に気化するが、閉鎖空間だと大きな効力を発揮する。

なお、ドイツ軍が第二次大戦前に開発したタブンとサリンという神経ガスは、日本軍は開発できず、ドイツから情報をもらう事もなかった。

日本陸軍は1944年末になっても、神経ガスの存在を知らなかった。

日本陸軍は、1926年から各毒ガスの実験演習を行った。

そして実験が進んだので、毒ガスの製造工場が造られる事になった。

27年8月1日に、陸達(陸軍大臣の通達)第36号により、広島県の大久野島に陸軍造兵廠火工廠・忠海派出所が設置された。

ついで28年7月9日に、裕仁(昭和天皇)の承認を得た軍令陸乙第6号により、忠海兵器製造所も設置された。

28年8月に大久野島の住民数十名は島外に移住させられ、29年5月19日に兵器製造所が竣工した。

毒ガス製造工場の所在地を隠すため、大久野島は地図から消されていった。

イペリットの製造装置は1925年にフランスのローヌ社から購入したが、これを基にして29年に日産3トンの製造装置を作った。

他の毒ガス製造装置も設置されていった。

海軍の毒ガス開発は、1922年に化学兵器の担当として本田喜一郎・海軍少佐が任命された時から始まった。

海軍は毒ガスを「特薬」と呼び、1号特薬はクロロアセトフェノン(N剤)、2号はジフェニールシアンアルシン(S剤)、3号特薬甲はイペリット(T剤)、3号特薬乙はルイサイト、4号は青酸であった。

23年4月1日に、海軍技術研究所が東京の築地に創設された。

この研究所の研究部第2科に、化学兵器室が設置された。

しかし関東大震災で研究所がほぼ全焼したため、30年に神奈川県の平塚火薬廠内に、第2科・平塚派出所が設置された。

ここは34年4月には化学研究部となり、毒ガスの製造と実験をした。

海軍の狙いは、砲弾に毒ガスを充填し、艦船を攻撃する事だった。

後には台湾と海南島にイペリットが送られ、熱帯での効果を検証する実験を行っている。

(2019年10月31日&11月2日に作成)


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