タイトル安倍政権を見極める㉒
政権を支える特異な人々⑰
日本会議の下部組織に参加した人の証言
(2016.5.16&18.)

(以下は、ハーバービジネス・オンライン
『草の根保守の蠢動』から抜粋)

日本会議が開催するイベントは、参加者の平均年齢は60代後半~70前後だ。

だが、イベントのスタッフは若い。

スーツ姿で黙々と作業をする彼らの中には、大学生にしか見えない男女もいる。

日本会議が裏方を担った2015年11月10日の「今こそ憲法改正を! 武道館一万人大会」では、スタッフの総数は100人前後だった。

そのうちの1人に、「君達は椛島さんとこの、日本青年協議会の人たちなの?」と問うと、「はい、そうです」と答えてくれた。

顔をのぞき込むと、泣きそうな顔をしている。
どうやら他言せぬように言い含められているらしい。

日本青年協議会と日本会議は、同じビルの同じフロアに本部がある。

日本青年協議会こそが、日本会議のコアである。

日本青年協議会は、どのようにして学生スタッフを集めているのだろうか。

同会は、「反憲学連」と「全日本学生文化会議」という学生組織を持っている。

「反憲学連」は、武装して左翼学生運動を襲撃する武闘派だが、1990年代以降は活動が確認されていない。

「全日本学生文化会議」は、読書会や勉強会を行う文教路線だが、活動は活発ではない。

となると、どうやって学生たちをオルグする(勧誘して構成員にする)のだろうか?

早瀬善彦(33歳)は、日本青年協議会のオルグの実態を告白する手記を発表している。

彼に会い、話を聞いた。

早瀬氏

「日本青年協議会とか全然、知らんかったんですよ。

高校2年生ぐらいの時に、渡辺昇一とか谷沢永一の対談本みたいのを読み、感化というか染まっちゃったんです。

『サピオ』とか『正論』とかを読んで、小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言』とかにハマッていきました。」

彼は大学受験に失敗し、浪人の道を選んだ。

彼が浪人生活をスタートさせた2001年4月は、小泉政権が誕生した時期だった。

早瀬氏

「生まれたばかりの小泉内閣に関して、保守論壇が一番こだわったのは靖国参拝でした。

小泉さんが靖国に行くって言い出したんで。

『小泉首相は8月15日に靖国に行くべきだ』との議論が白熱する中、『正論』に広告があったんです。

小泉首相と一緒に靖国神社に参拝しよう、と。

私はすぐに申し込んだのです。」

調べたところ、広告が掲載されていたのは『正論』2001年9月号の203ページだった。

イベント事務局の住所は、日本青年協議会および日本会議の本部の所在地である。

しかし、両団体の名前は出ていない。

早瀬氏

「でもね、小泉さんは結局、8月13日に参拝しちゃった。

だから15日に行く意味は無くなったが、すでに親から金を出してもらっているし、同世代の友達も欲しかったし、行くことにしました。

でも行ってみたら、学生は2~3人しかおらんのです。

大人ばかりで、団体名をしつこく聞いたら『日本青年協議会』と名乗りました。」

この名前を聞いても、当時の早瀬少年は何も感じなかった。

その後、皆で靖国参拝した。

早瀬氏

「参拝が終わったあと、直会(打ち上げ)がありました。

彼らがいつも使うセミナー・ハウスで。

帰る時に、『関西にいるんだったら、僕達の仲間は関西でもサークル活動をしてるから、大学に受かったら参加すればいいよ』と言われた。

そのサークルが、『学生文化会議』だったんです。」

彼はその後、2002年4月に同志社大学に入学し、さっそく全日本学生文化会議の門を叩いた。

(上記のとおり、この団体は日本青年協議会の下部組織です)

早瀬氏

「最初に誘われたのは5月ぐらいで、『京都に来る天皇陛下をお迎えに行こう』という活動でした。

(天皇の車が通る沿道には、日の丸の小旗を持った市民が集まるが)その時に言われたんです。

『あの小旗の配布は、僕達がやってるんだよ』と。」

彼の証言は、これまで集めてきた元関係者たちの証言と一致する。

ほとんどの場合、小旗を配布しているのは日本会議/日本青年協議会である。

この後、早瀬氏はさまざまな合宿や勉強会に誘われ始めた。

輪読会で使用されたテキストは、小柳陽太郎の「教育から消えた『物を見る目、歴史を見る目』」だった。

早瀬氏

「情念ばかりなんですよ、言うことが。論理性が一切ない。

で、連中はすぐに岡潔の話をする。
でもあの人は、まずちゃんとした数学者としての思考があるから、情念だって言えるわけで。

ちゃんとした本が読みたかったんですよ、トクビルとか。

左翼を批判するのなら、ちゃんとマルクスも読みたかった。

だから、『ここは変だな』と思い始めました。」

この輪読会の前後に、早瀬氏はとある幹部から「四先生の教え」を聞かされた。

「四先生」とは、谷口雅春、三島由紀夫、小田村寅二郎、葦津珍彦の4名だった。

彼が奇異に思ったのは、「これは、中に入った人にしか教えないんだけどね」との前置きがあった事だ。

「誰にも口外してはいけない」とも言われたという。

夏休みに入ると、大規模な合宿にも早瀬氏は誘われた。

講師は名越二荒之助や多久善郎だった。
多久は、日本青年協議会の理事長である。

早瀬氏

「話の内容は、『東南アジアの人々は日本に感謝している』とか、そんなんばっか。

話の後は、反省会をするんです。
それで、「内観」とかやらされる。

瞑想みたいなことをして、自分自身を反芻しろと。

その後、不思議な儀式が始まりました。

神職の方が来て、神道の儀式をするんです。

ヒトガタを作ってね、それに息吹きをさせられたり。」

この頃から、早瀬氏は「ああ、これは宗教なんだな」と気付くようになった。

彼はサークルから抜け出せないまま、秋に鹿児島での合宿にも参加した。

早瀬氏

「この合宿は、むちゃくちゃ参加者が多かった。
長崎大学の人とか。」

日本会議/日本青年協議会の源は、1968年の長崎大学の正常化運動(右翼学生の運動)に遡る。

長崎大学は、いわば彼らの故郷だ。

早瀬氏

「今から思うと、参加者は皆、学生運動の2世・3世なんですよ。

親に言われてしぶしぶ来ている者もいた。

結局、彼らの人材の供給源は、2世・3世しかいない。

僕みたいなパターンは異端なんでしょう。」

椛島有三の娘である椛島明実も、全日本学生文化会議に所属していた事が確認されている。

早瀬氏

「合宿に来ていた長崎大学の学生で1人、ソリの合わない奴がいたんです。

そいつは『A級戦犯は無罪だと街頭演説したが、街の人からなんで無罪なの?と質問されて説明できなかった。ぜんぜん勉強が足りなかった。』という話を、自慢げにしたんです。

街宣するなら勉強してからやれと指摘したら、『知識よりも大事なことがある!』と言い出したんです。」

早瀬氏は2003年1月にも、合宿に参加した。

今度の開催地は東京で、目黒区青葉台にある日本会議/日本青年協議会の本部にも案内された。

早瀬氏

「ここが日本会議で日本青年協議会だよって、説明を受けた。

『日本青年協議会が、全部の事務をやってるんですね?』と聞いたら、『秘密だけどね』と言ってました。

同じフロアで、仕切りも何もないです。」

この東京合宿で、早瀬氏はようやく同志と出会えた。

早瀬氏

「この時に初めて、早稲田のメンバーと会いました。
『早稲田国史研』というサークルの人達です。

全然カラーが違っていて、シュミットとかバークとか読んでいて、話が合う。

彼らとしゃべっていたら、『ここは、生長の家でしょ?』と言ってきて。

『宗教団体なんですか?』と聞いたら、『そうだよ』と。

この合宿は明治神宮の近くで、毎朝5時に起こされて儀式をやるんですよ。

で、早稲田の連中が『出なくていい』と言い、みんなでボイコットしたんです。

『こいつら気持ち悪いよな』って意気投合して、京都に帰ってからも彼らと連絡を取り続けました。」

その後、早稲田のメンバーは、サークル部室に残されている古い資料を調べた。

早瀬氏

「そうしたら、『反憲学連』とか『高橋史朗の手記』とか『ニューソート研究会』の資料が出てきて。

その資料を見た結果、『やっぱりカルトじゃん』となり、早稲田国史研は『ダミー・サークルでしかない』という理由で潰しちゃいました。」

早瀬氏は、大学2年になる頃には、さすがに全日本学生文化会議との距離を取り始めた。

人がいないため、同志社大学にあったサークルは自然消滅したという。

(※全日本学生文化会議は、その名で大学にサークルをつくることは少ない。

変名を使って、各地の大学でサークルをつくっているらしい。)

早瀬氏

「結局、OBしか居ないんです。彼らの供給源って。

昔に右翼学生運動していた連中の2世です。

九州と東京には2世は多いが、関西には居ないんです。」

これは合理的な説明だ。

これまで調べたところでも、関西の大学で彼らの運動が盛んだった話は聞かない。

早瀬氏

「話の節々が、『学生運動を忘れられない奴らが、それを続けている』ってノリなんです。

昔の『生長の家』の思想を核にしながら、「あの先輩は、左翼学生が多い時代に何々をした」という武勇伝ばかり。

「中核派と戦って」とか「あの大学の自治会を奪った」とか。

話が非常にみみっちい。日本をどうするかという話じゃない。」

嫌気がさしていた早瀬氏だが、最後に京都での合宿に参加した。

早瀬氏

「この合宿では、『常に天皇陛下がどう考えておられるかを考えながら、生活しろ』という話ばかりで、辟易しました。」

早瀬氏が見た内部文書には、次の裏カリキュラムが記載されていたという。

「1年目には、四先生の教えを徹底させる。

2年目には、天皇信仰を徹底させる。

3年目は総仕上げとして、谷口雅春の教えを植え付ける。」

このカリキュラム通りに、2年生になろうとする早瀬氏に「天皇信仰の徹底」をやり始めたのだ。

我慢の限界にきていた早瀬氏は、造反を決意した。

早瀬氏

「京大の農学部を出て、日本青年協議会に入った人がいたんです。

その人が、天皇天皇とあまりにうるさいから、『天皇陛下がサリンを撒けと言ったら、皆さんはサリンを撒くんですか?』と尋ねたんです。

そうしたら、頭を抱えて悩み出したんですよ。
「うー」とか唸って。

2時間ぐらい唸りながら考えている。
僕は笑いながら見てました、アホだなあと。」

この爆弾発言は問題になり、彼はめでたく全日本学生文化会議から追放された。

早瀬氏

「本当に、カルトなんですよ。

谷口雅春(生長の家の創始者)の名前は事あるごとに出るが、「内緒だよ」とか「他の人には言ってはいけない」と口止めされる。

彼らは正体を隠している。

それに彼らは、本体の『生長の家』とは違う。(生長の家から脱退した者達である)
だからなおさら正体が掴めない。」

早瀬氏のようにすっぱり抜けられない人は、ずるずると日本会議/日本青年協議会のスタッフとして活動していくのだろう。


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