オリンピックは使命を終えている、消滅させよう
(2019.1.7~8.)

オリンピック。

スポーツの祭典とされていて、次は東京で開かれる予定の国際大会です。

この大会は、私にとっては20年くらい前からどうでもいいもの(ほぼ興味のないもの)となり、15年くらい前から負の部分のほうが気になる大会となっています。

いつの頃からか、楽しめなくなりました。

しばらく前に、考えてみたんですよ。
なぜ私のオリンピックに対する評価が変わったのかを。

そうしたところ、3つの事に気付きました。

1つ目の気付きは、『オリンピックってアマチュア選手の出る大会だったのに、今はプロばかり出てるじゃないか。だから違和感があるんだよ』です。

若い人だと、もしかすると知らないかもしれませんが、オリンピックは長い間『アマチュア選手の祭典』だったのです。

私が子供の頃は、『アマチュアの祭典』というのが声高に宣言されていて、プロ選手は出場禁止でした。

オリンピックは、普段は日の目をみない人々(別の仕事を持つアマチュア選手たち)が集まり、4年に1度華やかな舞台で技を競う、という場だったのです。

実際には、国が勢威を見せようと選手にドーピングまでして活躍させようと画策するなど、裏では汚い事が頻発していたのですが、それでも商業主義的ではなかったし、アマチュアの匂いのする牧歌的な雰囲気がありました。

国家指導者や大手メディアは「いくつメダルを獲った」とバカ騒ぎしてましたが、私たち視聴者や選手達の大半はどこかのんびりしていて、「4年に1度の祭りを楽しめばいい、メダルとか結果が重要なのではない」と捉えていたと思うのです。

それがオリンピックだったのです。

それが近年は、プロ選手が多く参戦するようになったためか、選手たちまでメダル、メダルと騒ぐようになり、結果ばかりが強調される状態になりました。

本来は、スポーツを大いに楽しみ、同じ種目をする世界に散らばる仲間が結集して、磨いてきた技を披露し合うというのが目的だったのに。

過去を振り返ると、バスケットボールでプロ選手の出場を可能とし、アメリカ代表が「ドリームチーム」と呼ばれて話題となったあたりが、オリンピックの転機でした。

それまでのアメリカは、バスケ発祥の地であり、圧倒的な層の厚さを誇っているにも関わらず、オリンピックにはプロ選手が出られないので、金メダルを逃していました。

それに業を煮やしたアメリカがごねて無理に通したのか分からないが、突然にプロ解禁になったのです。

そうしてアメリカ代表に、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、チャールズ・バークレーなど、プロ・リーグのNBAでバリバリ活躍してる連中が、乱入しました。

誕生した新たなアメリカ代表(選手のうち1人以外は全員プロ)は、「ドリームチーム」と呼ばれましたが、ぶっちぎりの強さで優勝しました。

正直に告白しましょう。

私はその「第一期ドリームチーム」を見て、バスケの楽しさを知りました。

強いだけではなく、美しいバスケでした。
まあレジェンド選手の集まるチームで、他のチームと力の差が歴然だったし、余裕の試合運びが出来たので、当然なのですが。

その後しばらく、深夜に衛星放送されるNBAを毎回観るほどに、私は感化されました。

だが、あれ以後、オリンピックがおかしくなった気がします。

アマチュア精神を尊重する姿勢がなくなり、勝てばいいじゃない、儲かればいいじゃない、との空気が支配するようになりました。

ここで2つ目の気付きです。

『昔はほとんどのスポーツがプロ化してなかった。
 だからアマチュアの祭典に大きな意味があった。
 だが今は…』

私が子供の頃(1980年代)は、日本でプロ選手が大勢いたのは、野球、相撲、ゴルフくらいでした。
あとは賭博である競馬・競輪がプロ化してましたか。

そのくらいですよ。まだサッカーすらプロ選手はいなかった。

全般的に今よりもスポーツの地位は低くて、「芸能界やスポーツ界は水ものであり、まともな人間のいく世界ではない」との社会通念があったと思います。

当時は、スポーツって「子供の時にやるもの」という感覚があったと思います。
大人になってもやるものではなく、ずっと続けてる人は変わった人と見られている感じがありました。

大人になってもやるスポーツは、接待ゴルフか子供を指導する時くらいで、「大人になったら他の趣味を持つよね。そもそも趣味なんて持たずにとにかく働け」との感覚(今思うと実に偏見に満ちた社会だった)がありました。

この状況下で、日本でトップクラスのスポーツ選手も99%がアマチュアでした。

そして彼らは日陰者の扱いを受けており、昼は普通の仕事に就いて夜にスポーツに打ち込むみたいな、辛い中でスポーツを続けている人が沢山いました。

だからこそ、そういう人達が集まるオリンピックには独特の高揚感があったんですよ。

「いまこそ輝く時だ。俺たちを変人扱いしている連中を見返してやる!」という熱い情念が感じられ、それが見ていて気持ち良かった。

ところが今はどうでしょう。

多くの種目がプロ化され(それ自体は素晴らしいこと)、そのあおりを受けて『アマチュアの祭典』だったオリンピックがプロ選手解禁になり、「アマチュアのお前ら、邪魔だ。どけ!」みたいな空気すら出ています。

日本ではここ20年ほどで、一気に色々な種目がプロ化され(スポンサーがついて競技に専念できる個人選手を含む)、大人が余暇としてスポーツを楽しむのもぐーんと普及してきました。

思うに、1990年頃にバブル経済が弾けて、そこから10年くらい経つと、一生懸命に会社に忠義立てしてもクビ切られたり給料下げられたりする社会状況になり、猛烈に働くのがバカバカしくなったのではないか。

それで「大人になっても趣味を追求していいんじゃない」という心理に、人々が変化(進化)したのです。

「大人になってスポーツ真面目にやってる? 大人になってコンピュータ・ゲームしてるだと? ふざけんじゃねえ! 世の中舐めてんのか!」というのが、数十年前の日本でした。

それが今では、「大人になってマンガ読んでるだと? 俺も読んでるよ」「大人になってスポーツ真面目やってる? 健康に良いじゃないか」「大人になってコンピュータ・ゲームやってる? ドラクエ面白いよね」になりました。

多様性を認められる社会になったのは、大いなる進化です。
感涙ものです。

その流れで、日本では先日にバスケットボールがプロ化され、今度はバレーボールがプロ化されます。

昔から子供たちはスポーツ選手に憧れをもち、プロになるのを夢見ましたが、私が子供だった頃は、「あんな世界に行くな」と反対する親がかなりいました。

現在ではあまり居ないみたいですね。そういう話を聞かないもの。
環境が整い、野蛮な風習(先輩が後輩を殴る、非科学的で虐待的な練習、など)も少なくなって、職業としても成立しやすくなったから、親の不安が減ったのでしょう。

でも、このところスポーツ界は黒い話(アマチュア・ボクシングでの八百長や会長の汚職、いくつかの種目での暴行事件やパワハラ、補助金の不正流用など)が続いているので、また「あんな世界に行くな」と親は言うようになるかもね。

まあとにかく、どんどんプロ選手は増えています。

だから『アマチュアの祭典』オリンピックは、浮いた存在になりました。
プロ選手の出場禁止ルールだと、一流選手が皆出られない。

「だったらプロ選手を出しちゃおうよ、バレないよ多分」とオリンピック委員会が思ったのかどうか。

上述した世の中の多様化や、色んな趣味が認められてそれが商売としても成立するようになることは、さらに進んでいくでしょう。

実際にスポーツ界でも、ほとんどの種目でプロ選手が登場していて、各種目で国際大会が開かれています。

私は中学時代にバレーボール部にいた経験から、バレーボールの国際大会がテレビ放送されるとよく見るのです。

ところがですよ。驚くことに毎年、国際大会があるんです!

ワールドカップとか何とかいろいろ名前つけた大会が毎年あって、1年ごとに世界チャンピオンを決めています。

見ていて真剣に思うわけですよ。
『世界一を毎年ごとに決めているのに、オリンピックで世界一を決める必要あるかな?』とね。

昔は、どの種目も国際大会は少なくて、選手をサポートする体制も整っておらず、世界中の選手が一堂に会するなんて夢に等しかったです。

サッカーのW杯だって、最初は出場国が13国だけでした(当時は地区予選がないので、これが全出場国です)。

だからこそ、オリンピックに夢があったわけですよ。

それが今では、テレビ番組表を見てると分かりますが、テニスの4大大会、ゴルフの4大大会、世界陸上、フィギュアスケートの世界選手権、などなど。

なんかしらの国際大会が常に開催中なのでは、と思うほどです。

この状況下で、あえてオリンピックを開く必要があるでしょうか。

オリンピック関係者やマスコミは「オリンピックは特別な大会」と言いますが、私にはそうは思えません。

むしろ1つの種目に絞った大会(それぞれの競技協会が開催する大会)のほうが、その競技をよく理解している人が知恵を絞るので、面白くて熱狂できるものに仕上がっていますよ。

昔は、オリンピックが一生に一度の晴れ舞台という選手がたくさんいました。

でも今は、他にも輝ける舞台がいくらもあります。
しょっちゅう大会が行われているから、心配はいりません。

現在では、一流選手になれば出場する大会に困る事はなく、むしろどの大会に出るか迷う選手もいるほどです。

だからオリンピックは、一生に一度の晴れ舞台というよりも、その種目に興味のない人々にも名前を知ってもらう「名を上げる大会」になってます。

名を上げて、その結果として金を稼ぐ。これが目的になっている。

さて、最後の気付きになりますが、これが一番の問題です。

『オリンピックはアマチュア精神を尊び、金儲けと一線を画する流儀だった。それがいつの間にか金儲け第一になり、今ではスタジアムなどの建設で儲ける者が金メダルをとる大会となってしまった。』

この事については、以前に日記で取り上げたんですよね。2017年1月13日に。

オリンピックは以前から「誘致で裏金が横行している」とか「開催地になると建設費が膨れ上がり、その国は借金を抱えてオリンピック後に不況に陥る」と言われてきました。

私はそれを取り上げたドキュメンタリー番組を見たのですが、どちらも本当の事でした。

冷静に考えると、オリンピックとは1ヵ月弱の運動会にすぎません。

大がかりな運動会ではあるが、それで国が不況になるなんて間違っていますよ。

今の東京はオリンピック景気に沸いていますが、それで儲けるのは一部の人達だけです。

だが開催後の不況で苦しむのは、全国の人々なのです。

痛みを人々に押し付けておいて、一部の人だけが金メダルをとる(おいしい思いをする)。
こんな大会、楽しめるはずがありません。

近年は、オリンピックが大掛かりになりすぎていて(無駄に建設計画を大きくし儲ける者達が横行しすぎて)、「オリンピックは金がかかりすぎる、このままでは続かなくなる」との論調が増えてきました。

今回の東京オリンピックも、誘致する段階では「非常にコンパクトにし、金もかけない」との約束を日本はしていました。

ところが開催が決まったら、この約束(スローガン)は完全に反故にされて、今では数兆円かかるとか言われています。

誘致した連中は、世界も日本人も裏切りましたねえ。

さらに東京オリンピックでは、金まみれになっている証だと思うのですが、アメリカ(世界最大の顧客)の要望で、日本時間の朝早くから競技が行われるといいます。

アメリカのゴールデンタイムに合わせて、朝早くから競技開始するというのです。

選手達は、「それでは上手く身体の調整ができない、良い成績をあげられない」とブーイングしていますが、日本政府やオリンピック委員会は聞く耳を持ちません。

私が驚愕したのは、「オリンピックにeスポーツを入れることが検討されている」とのニュースを見た時です。

eスポーツとは、コンピュータ・ゲームの対戦で勝者を決める競技で、あれはスポーツではありません。

eスポーツなんて、紛らわしい名前を付けているが、あれはスポーツではない!!

あれを種目に入れるなんて、金儲け目的しかあり得ないです。

eスポーツは、1つの娯楽や競技としては可能性があるし、私も応援しているんですよ。
(名称は変えたほうがいいと思ってます。なぜならあれはスポーツではないから。)

多様な社会、進化した社会には、コンピュータ・ゲームで凄い技を披露し、それで飯を食う人がいてもいいと思ってます。

古くは高橋名人がプロ的な存在として居ましたが、彼はゲーム会社の宣伝担当の要素が強く、独立したプロ・プレイヤーとは言いづらかった。

テレビの深夜枠で放送されるeスポーツの大会を見て、「ついにコンピュータ・ゲームもここまでファンが増え認知される所まできたか」と深く感じいった次第です。

繰り返しますが、私はこの動きを好意的に見ています。

だが、画面に向かいコントローラーを持ってボタンをカチャカチャやるのは、スポーツではありません。

スポーツとは、全身を動かし汗をかいて、筋肉を刺激して鍛え、健康になるものです。

コンピュータ・ゲームは、やった事のある人なら誰でも気付きますが、やり込むとむしろ不健康になります。
実際に、eスポーツに登場する選手たちは、ほとんどが顔色が悪く不健康そうです。

eスポーツがオリンピックの種目として採用されたら、オリンピックの変節の最後の一撃になりますね。

そうなったらなったで、金儲けしたい人は「大きくて美麗な画面があればいっそう盛り上がる。競技人口を増やすために専用のスタジアムを造ろう」と言い出すのでしょう。

そうして数百億円の予算が組まれて、受注した会社と、それとつるむ政治家が懐をさらに暖めることになる。

さらに近年のオリンピックでは、建設費などで何兆円という金額を消費し、受注する企業は大儲けする状態なのに、「予算に余裕がないので、運営にはボランティアを起用する」のが定着しつつあります。

夏季オリンピックは夏の盛り、冬季オリンピックは厳寒の中で行われるが、その現場で働く人達はボランティアにしてタダ働きさせるというのです。

運営サイドは、「歴史的イベントに参加しよう」と言って、ボランティアを募っています。

何かで読みましたが、東京オリンピックでもボランティアを大量に使う予定で、東京の高校に募集の知らせが通達されているとの事。

驚くのは、各高校にボランティアを出すノルマがあるのか、強制的に募集紙に記入させられた生徒もいるというのです。

ぶっちゃけ、やりたくない人がほとんどでしょう。
オリンピックは、テレビや会場で観客として楽しみたいじゃないですか。

スタッフになってしまったら、競技を見て楽しむなんて出来なくなります

募集に応じる高校生が少ないから、強制的に応募させる状況が生じているらしいです。

本来ならば、現場で働く人をきちんとした給料で雇うことで、地元の経済にも貢献できるはずです。

儲けの大きい部分はコネのある連中で独占し、現場の一番面倒な仕事はボランティアに投げるというのは、かなり悪質です。
オリンピック委員会は、悪知恵の働く奴らが集まっている気がしてなりません。

もうお腹一杯なんです、オリンピックは。

さらに言うと、色んなスポーツの国際大会がありすぎて、国際大会も満腹状態です。
それなのに、各種目でさらに大会を増やそうとしていますよね。

冷静に考えれば、オリンピックは使命を終えていると分かるはずです。

スポーツのプロ化が進み、スポーツを万人が楽しむ環境も整ってきました。

もういいじゃないですか。十分じゃないですか。
報いの少ないアマチュア選手達の祭典だったオリンピックは、その役目を終えて消滅する時がきました。

オリンピックが本来の立場に戻り、規模を縮小して、未だプロ化してない種目だけに絞って行うのならば、それはそれでアリだと思います。

だが、金の亡者たちが集まっているオリンピック委員会を見ると、この原点回帰は不可能でしょう。

だったら終わりにするしかない。

私は地球で暮らしてきて思うのですが、地球人は規模を縮小したり、続けてきた何かを廃止するのが苦手ですね。

特に男性に、縮小や廃止を拒む傾向があります。

例えば日本では、少子高齢化が進んでいて、どう見ても国は縮小方向にあるのに、未だに「成長戦略」を掲げる党を支持する者が男性に多いです。

その人達は、実際にはプラス成長していなくても、「成長戦略」という響きだけで気持ち良くなってしまうのでしょう。

世の中を見ていると、「もうこれまでの規模は維持できない、これは廃止しよう」と説く人物が冷遇されています。

そういう意見を負け犬根性だと思う人達が多いんですよね。

そうかと思うと、合理的経営とか言って、いきなり首を切ったりするのは見逃されています。

冷静に分析して、維持できるものとできないものを見極めた上で、出来るだけ痛みを伴わないように変えていくのが、大人の政治・経営だと思うのですが。

そう考えると、江戸時代の政治家たちは、批判を恐れず時には緊縮財政(倹約令)をして、250年も幕府を維持させたのだから大したものです。

富国強兵、成長戦略、海外派兵、帝国主義で進んだ大日本帝国は、明治維新から数えても100年もたずに破滅しましたからねー。


日記 2019年1~3月 目次に戻る