日米政府の密約② 指揮権の密約①
(2019.3.11&13.)

(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)

日米政府の『指揮権の密約』(戦争になったら日本軍は米軍の指揮下に入るという密約)は、吉田茂が首相だった時に、口頭で結ばれた。

その元になった文書は『日米安全保障協力の協定案(旧安保条約の原案)』で、第8章2項には「戦争になったら、警察予備隊ならびにすべての日本の軍隊は、米軍の指揮下で戦うこと」と「戦争になったと判断するのは米軍司令官であること」が書かれている。

2015年の安保法案の審議を思い出してほしい。

国会で野党議員が「どのような事態の時に、日本は海外で武力行使できるのか」「存立危機事態とは、具体的にどのような事態ですか」と何度も訊いた。

安倍首相や中谷防衛大臣は、最後まで何も答えられなかった。

その理由は、『指揮権の密約』を知れば一目瞭然である。
判断はアメリカ政府がすることなのだ。

「戦争になったら、警察予備隊ならびにすべての日本の軍隊は、米軍の指揮下に入る」というのは、1951年2月2日にアメリカが提案してきた。

吉田首相らは、来日したジョン・フォスター・ダレス国務省顧問と交渉中だった。

この提案(日米安全保障協力の協定案)は、日本が再び軍隊を持つこと(再軍備)が予言されていた。

これに驚いた吉田茂と外務省は、「こんな取り決めを国民に見せることはできない、削除してほしい」と交渉し、旧安保条約や行政協定には入らなかった。

しかし1952年7月23日に、吉田は口頭で「戦争になったら、日本軍は米軍の指揮下に入る」と密約した。

実は、1951年1月から52年2月まで続いた、平和条約・安保条約・行政協定をめぐる1年間の日米交渉では、日本側は連戦連敗だった。

国際法の権威であるダレスが次々と繰り出す(騙しの)テクニックに対応できず、アメリカ側の思い通りの条約を結ばされた。

当時の外務省条約局の担当者たちは、それを詳しく記録して残している。

条約局長だった西村熊雄は、全交渉過程を20年以上かけて全5巻の『平和条約の締結に関する調書』にまとめている。

この調書が一般公開されたのは2001年で、現在では外務省のホームページで誰でも読むことができる。

読むと分かるのは、何度も騙されたあげく敗れ去る日本の外交官たちの姿である。

『平和条約の締結に関する調書』を読むことで、私たちはなぜ対米関係でこれほど理不尽な状況に置かれているかと、どうすればそこから脱却できるかが見えてくる。

旧安保条約(1951年9月に結んだ最初の安保条約)の原案(日米安全保障協力の協定案)の第8章(※上記の内容、戦争時に日本軍は米軍の指揮下に入る)について、西村熊雄は上で触れた『調書』の中で、「一読不快の念を禁じえなかった」と表現している。

原案を51年2月2日にアメリカから示されショックを受けた西村たちは、その日に修正意見をまとめ、翌3日に吉田首相と協議したあと、アメリカ側に次の4点の修正を求めた。

① 日本の再軍備と統一司令部(米日の統一指揮権)が書かれた
  第8章は、まるごと削除してほしい

② 占領の継続という印象を与えないため、在日米軍の特権に
  ついては条文に書かないでほしい

③ この協定が両国の合意に基づくものにするため、米軍駐留に
  ついて「日本が要請してアメリカが同意した」という表現
  ではなく、「両国が同意した」に変えてほしい

④ 米軍が平和条約の発効後も日本に駐留することは、
  平和条約には書かないでほしい

(※当時の日本は米軍の占領下で、まだ平和条約が結ばれていない)

③はアメリカが最も重視するポイントだったので、あっさり拒否された。

④は、「平和条約の発効後すべての占領軍は90日以内に日本から撤退するが、二国間協定に基づく外国軍の駐留をさまたげるものではない」と、平和条約に書くことになった。

実は、西村たちは知らなかったが、『外国軍の駐留を平和条約に書く』というのは、吉田首相が前年5月に池田勇人・大蔵大臣を派遣してアメリカに伝えていた。
(これも1つの密約だろう)

そうしておけば「米軍の駐留継続は憲法違反だ」という批判に対して、「平和条約は憲法に優先する」という論理で押し切れると考えたからだ。

①の日本の再軍備と統一司令部(統一指揮権)については、前年6月に起きた朝鮮戦争後、日本はアメリカから「再軍備して朝鮮で戦う米軍を援助しろ」とずっと圧力をかけられていた。

しかし、わずか3年9ヵ月前に憲法9条を持ったばかりで、すぐに再軍備は国民が納得しない。

そこで吉田茂たちは、重大な提案を2つ、51年2月3日に(上記の修正を求めた日に)アメリカ側に文書で行った。

1つ目の提案は、「第8章は削除したいが、それは日本が再軍備して戦争するのを拒否することではない」だった。

そして『再軍備の発足』という文書において、自衛隊の前身である「保安隊(5万人)」の発足を約束した。

『再軍備の発足』には、こう書いてある。

「新たに5万人の保安隊をもうける。
 これは警察予備隊や海上保安隊とは別のカテゴリーとして、
 訓練も装備もより強力にし、計画中の国家保安省に所属させる。
 この5万人をもって、再建される民主的軍隊の発足とする。」

こうして軍隊の発足が、密約として決まった。

この1951年2月3日の密約によって、憲法9条2項の解釈改憲はすでに行われていた。

そして2015年9月には安倍晋三・自公政権によって、安保法制が改定されて「海外派兵」が認められ、9条1項も解釈改憲されてしまった。

吉田茂がした2つ目の提案は、「在日米軍や日本の再軍備については、共同委員会(のちの日米合同委員会)を大いに活用すべきである」だった。

これが、日米合同委員会の起源である。

多くの日本人が不快と感じる事を、ブラックボックス(秘密会議)で処理しようという提案だった。

ダレスは吉田の提案を受けて、新しい方針を打ち出した。(1951年2月5~6日に)

日本の再軍備と、日米の統一指揮権について、可能な限り文書化し、それは秘密協定にして安保条約から切り離すことを決めた。

この秘密協定こそが『行政協定』で、この時点で安保条約の原案(日米安全保障協力の協定案)は2つに分割され、『安保条約』と『行政協定』が生まれることになった。

もともとダレスが日米交渉を行う許可を(トルーマン大統領から)得たのは、1950年9月8日だった。

この日、トルーマン大統領は「日本のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊を置く権利を獲得すること」を、日米交渉の基本方針として決定している。

もちろん独立した国家にそんな権利を認めさせるのは、国連憲章にもポツダム宣言にも違反している。

だからダレスは、51年1月26日(来日した翌日)のスタッフ会議で、「日本にこれを飲ませるのは非常に難しい」と発言していた。

だが、その難しいと思われた条件を、日本側(吉田首相)の提案を元にした「行政協定+日米合同委員会」というやり方(密約)で成功させた。

日本側がその条件を受け入れた直後(2月5日)に、ダレスは「非常に寛大な平和条約」の草案を示し、その方針を確定させた。

西村熊雄はこう回想している。

「日本が独立を回復した後も米軍が駐留することが確実になった
 後で、アメリカは平和条約の構想を明らかにした。

 その平和条約案はきわめて寛大で感銘は大きかった。」

『寛大な平和条約によって、常識外の軍事特権を獲得する』というアメリカの戦略に、日本の外交官はまんまと誘導されていったのだ。

ダレスは1951年2月6日に、日本側に「平和条約・安保条約・行政協定」の3本立ての原案を示し、9日に日米でサインされた。

それから7ヵ月後の51年9月に、ダレスはサンフランシスコに52ヵ国の代表を集めて、対日の平和条約を成立させた。

ダレスはこの成功によって外交官としての評価を高め、1年4ヵ月後にアイゼンハワー政権で国務長官に任命された。

そして同時期にCIA長官になった実弟のアレン・ダレスと二人三脚で、国際政治を操っていく。

ダレス兄弟は、徹底した反共思想の下、世界中で軍事同盟を結び、気にくわない外国政府を転覆させていった。


日記 2019年1~3月 目次に戻る