日米政府の密約② 指揮権の密約②
(2019.3.13.)

(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)

日米の軍事における統一指揮権の条文をめぐっては、日米の行政協定の交渉として、平和条約と旧安保条約の調印(1951年9月)が終わってからも、翌52年2月まで協議が続いた。

最終的に統一指揮権は、行政協定の条文には入らなかったが、その理由はアメリカ国務省の報告書にはこうある。

「もしその条文を公表した場合、次期総選挙で最も親米的な吉田政権が敗北するのは確実だった」

統一指揮権が記述されなかった事について、交渉責任者だったディーン・ラスク国務次官(特別大使)は、ワシントンに公電で1952年2月19日にこう説明している。

「(統一指揮権については)簡潔で一般的な文章で書いておき、
 詳細は後日に協議するほうが、日本国内の論争も抑えられ、
 憲法問題も起きないでしょう。

 我々の国益も最も得られます。」

統一指揮権の条文が無かったのは、アメリカ側の譲歩ではなく、逆に考え抜かれた一手だった。

ディーン・ラスクは後に、長く国務長官(61~69年)を務めることになった。

ラスクは日米のトップが協議して決める、現在の「ツー・プラス・ツー」のような構想を考えていた。

この構想は、1960年の安保改定時に実現することになった。

条文は作られなかったが、日本の独立から3ヵ月後の1952年7月23日(保安隊が発足する3ヵ月前)に、吉田茂・首相は口頭で、1回目の『統一指揮権の密約』を結んだ。

この密約の3日後(7月26日)に、アメリカの極東軍司令官だったマーク・クラーク大将は、本国の統合参謀本部にあてて報告書を送っている。

この文書は、古関彰一が1981年にアメリカ国立公文書館で発見した。

クラークは、こう報告している。

「私は7月23日の夕方、吉田首相、岡崎外相、マーフィー駐日
 アメリカ大使と、自宅で夕食を共にした後、会談した。

 私は、有事の際の指揮権について、日本政府との間に明確な
 了解が不可欠だと説明した。

 吉田茂はすぐに、有事の際は単一の司令官が不可欠で、
 現状ではその司令官はアメリカが任命すべきである事に
 同意した。

 吉田は続けて、この合意は日本国民に与える衝撃を考えると、
 秘密にすべきであるとの考えを示し、マーフィーと私は
 同意した。」

米軍の司令官が、首相や外相を自宅に呼んで話をしている事に驚かされる。

クラークは3代目の国連軍(朝鮮国連軍)の司令官であり、ミニ・マッカーサーの様な権威があったのかもしれない。

この文書は、国と国が正式にサインしたものではなく、ただの機密公電だが、指揮権で密約した事を証明している。

統一指揮権は、1954年2月8日に、吉田茂が2度目の口頭密約をした。

それは、54年2月17日にアメリカ下院の外交委員会でジョン・アリソン駐日大使が証言している。

「1週間前(2月8日)の夜、ジョン・ハル将軍と私が吉田首相
 に離日の挨拶をした時に、吉田がこの問題を取り上げました。

 彼は米軍との共同計画について、日本の担当官がアメリカの
 担当官と作業を始めると言いました。

 これは日本の政治状況により公表はできないが、吉田首相は
 有事の際に最高司令官がアメリカ軍人になる事は全く問題ない
 との個人的保証を、我々に与えました。

 ハル将軍は極めて満足し、公然たる声明や文書を要求しないと
 述べました。」

私の友人に、自衛隊の方が何人かいる。

彼らに話をきくと、こう証言する。

「自衛隊は防御を中心とした編成だが、守っているのは日本の
 国土ではなく、在日米軍と米軍基地だ。
 それが現実の任務だ。

 自衛隊の持つ兵器は、ほぼ全てがアメリカ製で、データも
 暗号もGPSもすべて米軍とリンクされている。

 だから最初から米軍の指揮下でしか動けない。
 そのように設計されている。」

1950年10月27日に米軍(国防省)がつくった安保条約の原案(安保条約・国防省原案)には、第14条にこう書かれている。

① この協定(安保条約)が有効な間は、日本政府は陸海空軍を
  創設しない

  ただし、アメリカ政府の助言と同意が伴い、アメリカ政府の
  決定に完全に従属する軍隊を創設する場合は例外とする

② 戦争または戦争の脅威が生じたと米軍の司令部が判断した
  時は、すべての日本の軍隊はアメリカ政府の任命した最高
  司令官の統一指揮権の下に置かれる

③ 日本軍が創設された場合、日本国外で戦闘することはできない

  ただし、アメリカが任命した最高司令官の指揮による場合は、
  その例外とする

今の自衛隊は、この原案のとおりになりつつある。

この原案をまとめたのはカーター・マグルーダー陸軍少将だが、彼は51年1~2月のジョン・フォスター・ダレスの来日使節団に主要スタッフとして参加し、吉田・ダレスのトップ会談にも参加している。

そして時にはダレスの言葉をさえぎってまで、軍部の要求を条文に反映させようとした。

「安保条約・国防省原案」に一部修正を加えたものが、1951年2月2日にダレスが日本側に提示した「安保条約のアメリカ側原案(日米安全保障協力の協定案)」である。

つまり、(日米安全保障協力の協定案を基に、旧安保条約と行政協定は生まれたので)旧安保条約と行政協定の執筆者は、マグルーダーなのだ。

すでに説明したように、②の『統一指揮権』については、吉田首相がアメリカ政府と口頭で密約している。

これを考えると、①と③についても密約で担保されている可能性がある。


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