イラン・コントラ・ゲート事件

『イラン・コントラ・ゲート』とは、アメリカ政府が行っていた悪事がばれて、大問題になった事件です。

アメリカは、イランとイラクが戦争を始めると、イランへの武器輸出を禁止して、各国にもイランへの武器輸出をやめるように求めました。

そうして戦争の半ばからは、イラクを経済・軍事で支援しました。

ここまではアメリカがよく行う事ですが、ここからが問題です。

アメリカ政府は、密かにイランへの武器輸出を決め、NSCとCIAの主導で密売が進められました。

つまりアメリカ政府は、隠れてイランに武器を売り儲けていたのです。

これだけでも大問題ですが、アメリカ政府はこの密売で稼いだ金を国民に隠しつつ、ニカラグアの反政府ゲリラ組織であるコントラに支援金として渡したのです。

秘密資金を作った上で、国会の承認を得ずに、コントラを支援していました。

この事実が明らかにされて、『アメリカ政府が、国民や諸外国に内緒で、汚い行いをしている実態』が表に出ました。

これが、イラン・コントラ・ゲート事件です。

ここからは、当時に兵器ディーラーをしていたハーマン・モールが著した『兵器ディーラー』からの抜粋になります。

(以下は、『兵器ディーラー』ハーマン・モール著から抜粋)

イランは、ホメイニーの革命によって1979年1月に国王を追放してからは、兵器調達が難しくなった。

アメリカは、国王時代にはイランと緊密な関係を持っていた。

ホメイニーらのイラン革命によって、アメリカのイラン支配は終わりを告げた。

ホメイニー革命の10ヶ月後に、ホメイニーの信者がイランのアメリカ大使館を占拠し、大使館員を人質にした。

カーター大統領は経済制裁を課し、兵器禁輸の措置をとった。

そして、この人質事件が解決しないことが、カーターが大統領選に負けてレーガンが当選する一因となった。

アメリカ人の人質は、レーガンが大統領に就任した日に解放された。

だが、アメリカの兵器禁輸は続けられた。

このため、イラン軍は窮地に陥った。
イラン軍は、国王時代に大量のアメリカ製兵器を買っており、予備部品が入手できないと困るからである。

そしてイランは、兵器ディーラーの理想の客となった。

(兵器ディーラーは、アメリカ製の軍需品を調達して、イランに輸出したのです)

1980年にイラク軍がイランに攻め込み、『イラン・イラク戦争』が始まると、兵器ビジネスの格好の市場となった。

当時のイラクは、ソ連の支援を受けており、アメリカの同盟国イスラエルの敵対国でもあった。

一方イランについては、レバノンにおけるテロ活動を支援しているという疑念が強まっていた。

アメリカの関心は、ホルムズ海峡をアメリカなどの船舶が自由航行できるようにしておく事だった。

1981年のレーガン政権発足の当初から、対イランの兵器禁輸の見直しを求める圧力はあった。

NSCの文書課が作成した1日刻みの「ザ・クロノジー(年表)」には、対イラン政策がイラン・コントラ・ゲート事件にまで発展する経過が記されている。

アメリカは、兵器禁輸を守っていなかった。

イスラエルが、アメリカから購入した兵器をイランに転売しているのは、よく知られていた。

イスラエルは、イランへの兵器供与に便宜をはかる姿勢を、隠す事は無かった。

1984年に前国防相のアリエル・シャロンは、コネチカット州で演説をし、イランへの兵器売却を認めた上で「イラクが戦争に勝てば、ソ連の力が中東に浸透する危険がある」と述べた。

イスラエルはさらに、イラクが捕獲した兵器を、イランに売り戻す事までしていた。

イスラエルにとっては、イランもイラクも敵である。

だから、「兵器を供給する事で両国が殺し合うのは、利益になる」と考えていた。

1983年12月に、アメリカ国防総省のラルフ・ブローマン中佐とCIAのポール・カッターは、イランへの兵器売却を目的に、『ヨーロッパ・ディフェンス・アソシエイツ(EDA)』という会社を設立した。

そして数億ドルにおよぶ兵器を、イランに売り込もうとした。

これには、フランス人兵器ディーラーのベルナール・ベイヨと、イラン人仲介者のマヌチェル・ゴルバニファーも絡んでいた。

EDAは、「デマバンド計画」と呼ばれる作戦の一環だった。

EDAはイランに対して、1兆ドルの一括取引をオファーし、交渉に当たったイラン側の代表団にはゴルバニファーもいた。

86年4月に著者のハーマン・モールが逮捕された際には、スイスにいたゴルバニファーも逮捕され、翌日に釈放された。

これはゴルバニファーへの警告の矢で、「イランへの兵器売却の唯一のチャンネルは、アメリカ政府のオリバー・ノース中佐とNSCである」と想起させるものだったかもしれない。

1983年10月に、ベイルートのアメリカ大使館と海兵隊兵舎がテロ攻撃で爆破され、イランが関与していると疑われた。

84年1月にアメリカ政府は、「イランは国際テロのスポンサーである」と非難した。

ベイルートではさらに、多くのアメリカ人が誘拐されて、その中の1人がCIAレバノン支部長のウィリアム・バックレーだった。

NSCのオリバー・ノース中佐は、バックレーを釈放するための身代金を用意しようとした。

そして身代金工作が失敗すると、NSC内部では兵器と人質を交換する考えが具体化し始めた。

「人質解放を条件に、兵器をイランに渡そう」という案である。

交換案を最初に言い出したのは、ゴルバニファー(イスラエルの工作員だったと言われている)だったらしい。

1985年夏に、アメリカ政府のNSC(国家安全保障会議)は、「イスラエルを通じてイランに兵器を輸出すること」を提案した。

シュルツ国務長官とワインバーガー国防長官は反対したが、ノース中佐とその上官のマクファーレン国家安全保障担当・大統領補佐官は計画を進めた。

イランへの兵器売却で得た金をコントラの支援に回すことは、「西半球を共産主義から救うためには、アメリカはニカラグアの反政府ゲリラ(コントラ)を援助しなければならない」という、ノースの偏執的な信念から生まれたらしい。

コントラへの援助は、アメリカ議会は承認を拒否したが、ノースらは意に介さなかった。

イランへの兵器売却で上げた利益の大半が、コントラの援助に回った。

アメリカは、テロリズム反対を唱える一方で、反政府ゲリラのコントラを支援していたのである。

イランへの兵器売却について、誰がどこまで知っていたのかを突きとめるのは困難だった。

アメリカ政府のタワー委員会(イラン・コントラ・ゲートの調査委員会)と公聴会では、いつも関係者の証言が一致しなかった。

アメリカ政府は誰が動かしているのか?

大統領に常時すべてが報告されているわけではないし、議会はもっと知らない。

CIAやNSCのエージェントは、オリバー・ノースがしたように上層部に相談しないで好きな事ができるのか?

そうならば、無秩序状態だと考えざるを得ない。

(※別ページの年表を見ると分かりますが、レーガン大統領やブッシュ副大統領もこの不正をかなりの把握をしており、政府全体での行為と見ていいです)

(2014年3月5日に作成)


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