(『物語イランの歴史』から抜粋)
19世紀の中頃にイランを震撼させたのは、『バーブ教徒の反乱』であった。
バーブ教は、救世主信仰の強い宗教で、指導者はミールザー・アリー・モハンマドである。
ミールザー・アリーは、1844年3月24日に、突如として神の呼びかけ(啓示)を聞いた。
この日が、バーブ暦の元日となった。
彼は、「私は神隠れしたイマームへの門(バーブ)である」と称し、後には「私は神隠れしたイマームそのものだ」と主張した。
(イスラム教シーア派には、神隠れしたイマームがいつか復活するという、復活信仰がある)
シーア派の信仰に独自の解釈をしたバーブ教は、シーア派にとって大きな脅威だった。
イスラーム聖職者たちは、バーブ教を異端とした。
ミールザー・アリーは、カージャール朝やヨーロッパ諸国を公然と非難するようになった。
そして、「社会的な平等」「女性や子供の待遇改善」「個人財産の保証」「自由な商業活動」「税や刑罰の軽減」を訴えた。
1848年にカージャール朝の国王モハンマドが死去すると、ロシアの支援を受けて、ナーセロッディーンが後を継いだ。
この年に、バーブ教は反乱を起こし、勢力を拡大した。
1848~52年にかけて、カージャール朝は虐殺をしながら反乱を鎮圧した。
ミールザー・アリーも捕まって、50年に銃殺された。
この鎮圧での犠牲者は、バーブ教徒は4万人とも言われている。
生き延びたバーブ教徒たちは、バハーオッラー(1817~92)という人物に従うようになった。
バハーオッラーは1863年に、「私は、バーブ教によって定められた預言者である」と宣言した。
彼の教えは、バーブ教のトーンを放棄した、自由主義的なもので、『バハーイー教』として知られていく。
バハーイー教は、世界各地に広がり、世界的な宗教となった。
現在の世界全体での信徒数は、600~700万人という。
バハーイー教は、コスモポリタン的なところがあり、職業としては貿易に従事する人が多い。
(2014年1月17日に作成)