(『誰にでもわかる中東』小山茂樹著から)
1947年2月に、イギリスは自ら、「パレスチナの統治能力を喪失したこと」を認めた。
そして、この問題を国連に移管する事を表明した。
これを受けて、国連は調査団を派遣した。
そして8月に、2案を記した報告書が提出された。
一つは「アラブ国家とユダヤ国家に分割する案」、もう一つは「アラブ人とユダヤ人の連邦国家案」だった。
シオニストと米国は分割案を支持し、国連で採択されるように工作を展開した。
1947年11月29日に、国連総会で分割案は可決された。
ソ連は分割案に賛成した。
ソ連は、「イスラエル建国が、中東のイギリス権益を弱体化させる」と読んだのだった。
そして、イスラエル領になる土地に居るアラブ人の多くが、住居から追い出された。
48年4月9日に、アラブ人の小村デイル・ヤシーンが、過激派シオニスト集団「イルグン」に襲われて、村人254人全員が虐殺された。
(デイル・ヤシーンの虐殺事件)
この事件は、アラブ人の出国の大きな引き金となった。
ちなみに、元リクード党首でイスラエル首相にもなったメナヘム・ペギンは、イルグンの部隊長であった。
1948年5月14日に、イギリスの委任統治は終わり、イスラエルが建国された。
アメリカはただちにこれを承認し、3日後にソ連も承認した。
(2013年3月14日に作成)