全斗煥は、宥和政策に転じる
盧泰愚は民主化宣言をして、大統領になる

(『韓国歴史地図』から抜粋)

全斗煥の政権は、社会全般を強圧的に統制した。

そして、人々の関心を別な方向に向ける「愚民化の政策」を推進した。

1981年の大衆芸術祭の開催、カラーTVの放送、ミス・ユニバーシアード大会の誘致などが、それである。

82年に始まった各種プロ・スポーツの導入も、その一環であった。

その一方で、日常生活の規制が緩和されて、82年には「夜間通行の禁止」が解除された。

中高生の髪型と制服も、自由化された。
海外旅行も自由化された。

このような政策は、国民の支持を得るための措置だった。

全斗煥・政権は、1983年から宥和政策に方向転換し、民主化の活動家を復権させた。

これを契機に、民主化運動は再び活気を帯びた。

85年2月の国会議員選挙では、新民党が旋風を起こして、第1野党になった。

これに後押しされて、民主化を求める人々は、『大統領の直接選挙制』への改憲を要求した。

しかし全政権は、「政界の合意が得られなかった」という理由で行わなかった。

全斗煥・大統領は、盧泰愚に権力を継承しようとし、87年6月に与党・民正党の大統領候補に指名した。

そうした中、全国で民主化を求めるデモが起きた。

6月29日に盧泰愚は、『民主化宣言(大統領の直接選挙制の容認)』をした。

この宣言では、政治活動の規制撤廃や、拘束された人々の釈放も約束した。

大統領の直接選挙制は、任期を5年として、憲法改正がなされて実現した。

そして、12月の大統領選挙では、盧泰愚が当選した。

○村本のコメント

ここでは、「愚民化の政策」として、プロ・スポーツの導入などが挙げられています。

こういう、「大衆に迎合的な娯楽は、愚民化を進める」という考え方をする人がいます。

私は、こういう考え方は極端だと思うし、賛成しません。

でも、人々が政治よりもTVドラマやプロ・スポーツの話ばかりをしている姿を見ると、「ある程度の説得力はあるなあ」とも思います。

(2013.10.21.)


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