在日朝鮮人の帰還活動
1959年から25年間にわたって行われる
その背景

(『そうだったのか!現代史2』から抜粋)

1959年12月に、北朝鮮に帰る人たちを乗せた船が、新潟港から出港した。

それ以来、25年にわたって『在日朝鮮人の北朝鮮への帰還活動』が行われた。

日本が朝鮮を支配している間に、多くの朝鮮人が日本に来た。
(強制連行されてきた者もいます)

日本の降伏宣言(1945年)の時、200万人超の朝鮮人が日本に居た。

その後、多くは故郷へ帰っていったが、日本に残った人も多かった。

この在日朝鮮人の間で、1950年代の後半に、「北朝鮮に帰国しよう」との運動が盛り上がった。

運動の中心になったのは、朝鮮総連である。

当時の北朝鮮は、朝鮮戦争で青年や壮年の年代が失われ、労働力不足になっていた。

金日成は、「労働力不足を解消できる」と考えて、「帰国を熱烈に歓迎する」と表明した。

1958年11月に、日本で超党派の『在日朝鮮人の帰国への協力会』が結成された。

自民党、社会党、共産党の議員や、ジャーナリストなど、46人が呼びかけ人となった。

会の代表委員には、自民党の小泉純也議員(小泉純一郎の父)もいた。

顧問は、鳩山一郎・元首相、社会党の浅沼稲次郎・委員長、共産党の宮本顕治・書記長であった。

1959年2月には、岸信介・内閣も「帰国運動を認める」という方針を出した。

日本と北朝鮮には国交が無かったので、赤十字が仲介役になった。

帰国者の数は、1959年には2942人、翌年には4万9036人となり、1984年までに9万3380人が帰国した。

帰国した人たちは、「祖国の発展に尽くそう」とか「日本で差別を受けているくらいなら、祖国で一からやり直そう」と考えていた。

在日朝鮮人たちは、就職や結婚などで差別を受けていた。
「差別される日本よりは、苦しくても祖国で頑張ろう」という気持ちになったのは当然だろう。

帰国者たちは、「祖国に帰れば、大学に行けるし、希望する職業にも就ける」と聞かされていた。

しかし帰国後は、住所も職業も一方的に指定され、文句を言う人は連行された。

帰国者たちは、今度は北朝鮮で差別を受けた。

「アメリカや日本のスパイではないか」と疑われ、常に監視された。

日本は、なぜ帰国に賛成したのだろうか。

当時は、日本では失業者が増大していた。

当時の状況について、在日朝鮮人の朝光煕はこう書いている。

「日本では、『本人たちが帰りたいと言っているのだから、早く帰してやれ』との声が支配的だった。

終戦後に男達が帰国してくると、朝鮮人の労働力はもう必要なかった。
すでに私たちは、日本では邪魔者になっていたのだ。」

さらに当時の日本国内では、「発展する北朝鮮と、軍事独裁の韓国」とのイメージもあった。

(※1970年くらいまでは、北朝鮮の方が韓国よりも経済発展が進んでいた)

ジャーナリストの黒田勝弘は、こう述べている。

「当時の日本の雰囲気は、左派の心情は贖罪感を背景にした『申し訳ありませんでした。新天地で頑張って下さい』であり、政府当局などの右派は『どうぞお帰り下さい』という厄介払いの心情だった。

左派も右派も同罪なのだ。」

帰国が始まってからしばらくすると、帰国した人々から「下着や毛布や医薬品を送ってくれ」との手紙が次々に届いた。

そこで、「北朝鮮では、日常品ですら不足しているのではないか」との疑惑が生まれた。

さらに、手紙には必ず「金日成さまのご配慮で、幸せに暮らしております」と書いてあり、検閲されているらしい事も分かってきた。

こうした情報は、日本国内では広まらなかった。

しかし、1970年代に入ると帰国者は激減した。

(2014.1.4.)


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