シモン・ボリバルの活躍で、独立を達成する
グラン・コロンビアが建国される

(『ラテン・アメリカ史』『コロンビアを知るための60章』から抜粋)

シモン・ボリバルは、1783年7月24日に、ベネズエラのカラカスで生まれた。

彼の家は、土地や奴隷を所有する富裕な家庭で、彼は十分な教育を家庭教師から受けた。

家庭教師の1人に、ルソーの思想の信奉者だったシモン・ロドリゲスがおり、彼はボリバルに大きな影響を与えた。

ボリバルは、17歳の時にスペインに留学した。

そしてスペインで結婚して、1807年に帰国した。

しかし妻は間もなく他界して、失意のボリバルは独立運動に没頭するのだった。

1810年4月19日に、カラカスの市会は、スペイン政府の官吏を追放した。

これが、14年間にわたる独立戦争の発端となった。

同年にボリバルは、カラカス革命の指導者としてロンドンに渡り、イギリスの支援を求めた。
しかし、上手くいかなかった。

だがロンドンでは、フランシスコ・デ・ミランダに出会った。

この時、ボリバルは27歳、ミランダはすでに60歳だった。

2人はカラカスに戻り、議会を召集して、憲法を制定した。

そして、1811年7月5日に、議会はベネズエラの独立宣言を行い、ミランダは軍司令官となった。

しかし翌12年の3月26日に、カラカスは大地震に見舞われて、2万人の死者を出した。

これに乗じてスペイン軍が攻めてくると、ベネズエラ軍は壊滅的な打撃をうけた。

ミランダはロンドンに亡命しようとし、それを裏切りと感じたボリバルは、ミランダをスペイン軍に引き渡した。

ミランダはスペインに送られて、獄中で4年後に他界した。

シモン・ボリバルは、オランダ領キュラソー島に逃れて、さらにコロンビアに逃れた。

ここでボリバルは、同志となるアントニオ・ナリーニョを得た。

ナリーニョは、「フランスの人権宣言」を翻訳して出版したため、12年間も投獄されて、ようやく釈放されたばかりだった。

1813年3月に、ボリバルは数百名の義勇兵を集めて、ベネズエラに進撃した。

カラカスを目指して、途中にいるスペイン派の者は皆殺しにしていった。

8月にカラカスを占領したが、この後にスペイン軍の反撃に遭った。

14年9月には、ボリバルは再びキュラソーに逃れ、さらにイギリス領ジャマイカに逃れた。

この時が、彼にとって最も苦しい時だった。

ジャマイカに居た6ヶ月の間に、彼は有名な「ジャマイカからの手紙」を書いた。

これは、誰に宛てたとも言えない手紙だが、スペインの悪政と南米の独立の必要性を説いた名文である。

ボリバルは、独立運動に好意的なハイチの大統領、アレクサンドル・ペテオンに援助を求めた。

そして16年3月に、兵士と共にベネズエラに上陸した。

この後、シモン・ボリバルは南米・北部の独立を勝ち取るが、その要因は3つあった。

① 勇敢な平原の自警団の指導者だった、ホセ・アントニオ・パエスと同盟を結んだ

② ベネズエラの首都カラカスをすぐに狙わず、オリノコ河流域を押さえて、食糧の確保とニュー・グラナダ(現在のコロンビア)との連絡を保った

③ イギリスから義勇兵が来た
  (イギリスからの義勇兵は、19年には4千人を超えた)

ボリバルは、オリノコ河口のアンゴストゥーラに、臨時の首都を設けた。

彼は、ニュー・グラナダのスペイン軍を奇襲するために、アンデス山脈を越えて進撃した。

そして1819年8月7日に、ボゴタ付近でスペイン軍を破り、ニュー・グラナダ(現在のコロンビア)の独立を確実なものにした。

ボリバルは、コロンビア独立の英雄として、現在も称えられている。

ボリバルは、ニュー・グラナダに仮の政府を作り、自ら大統領になった。

しかし、副大統領のパウラ・サンタンデールに後事を託して、直ちにアンゴストゥーラに引き返した。

1819年12月17日にボリバルは、「ベネズエラ、ニュー・グラナダ、エクアドルを併合して、『グラン・コロンビア』という1つの国にする」と発表した。

そして、『グラン・コロンビア』の建国を宣言し、初代大統領になった。

しかしこれは、彼の1人よがりであった。

どの国も分離独立を希望していたし、地理的にも経済的にも文化的にも統合は無理だった。

グラン・コロンビアは、3つの県から構成された。

ベネズエラ県、クンディナマルカ県(ニュー・グラナダ)、そしてまだ解放の進んでいないキト県(現在のエクアドル)の3つである。

各県を担当する副大統領も設置されて、パウラ・サンタンデールはクンディナマルカ県を管轄する副大統領になった。

1820年になると、スペイン本国で反乱が起き、ベネズエラのスペイン軍はボリバルと休戦協定をして帰国した。

21年6月に、ボリバル軍は協定を破って、スペイン軍の根拠地マラカイボ湖を攻め落とした。

これにより、ベネズエラの解放は確定した。

ボリバルは、ベネズエラとニュー・グラナダの代表者を集めて、会議をした。

この会議で、ボゴタを首都とする中央集権制の憲法が制定された。

グラン・コロンビアの憲法制定にあたり、ボリバルは
「アメリカ合衆国の憲法は素晴らしいものだが、この国の人民にはまだ能力が無いから、これを採用・模倣してはならない」とし、強力な大統領を持つ中央集権国家の必要性を説いた。

会議の結果、ボリバルが大統領、サンタンデールがただ1人の副大統領になった。

そしてボリバルは、政治はサンタンデールに任せて、自らはエクアドルの解放に着手した。

エクアドルには、サン・マルティンによってペルーを追われたスペイン軍がいた。

1821年11月にボリバルは、最も信頼するスクレの部隊をエクアドルに送り込んだ。

スクレはキトに向かい、22年5月24日にピチンチャ山の高原で、スペイン軍を打ち破った。

その直後にボリバルの軍隊も到着して、キトに入った。

キトの群衆は、熱狂して一行を迎えた。

この時が、ボリバルの絶頂であった。

エクアドルのキトとグアヤキルは、ボリバルの説得により、グラン・コロンビアに加入した。

こうして、ボリバルの夢は一応は実現した。

(2013.10.23.作成)


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