スペイン・ポルトガルに代わって、英米が中南米での主導権を持つ
モンロー主義の宣言

(『ラテン・アメリカ史』中屋健一著から抜粋)

1812~14年に行われた米英戦争の結果、イギリス商品の対米輸出は激減した。

このためイギリスは、新しい市場として中南米に進出し始めた。

そうして、中南米の独立戦争では、多くのイギリス人やアイルランド人の義勇兵が革命側に参加・協力した。

一方アメリカも、「中南米諸国が独立すれば、アメリカとの貿易が開放される」と考えて、独立戦争を支援した。

英米は、神聖同盟諸国(ヨーロッパ諸国)が中南米に干渉しようとした時に、激しく反対した。

これが、有名な1823年のアメリカの『モンロー主義の宣言』となった。

『モンロー主義の宣言』が、英米の共同宣言にならなかったのは、アメリカ国務長官のジョン・アダムスが「イギリスのみに進出を許す結果になるかも」と恐れたからである。

この宣言により、中南米がスペイン・ポルトガルの植民地に戻る事はなくなり、英米両国は中南米の経済支配へと活動していける事になった。

(『早わかり世界近現代史』から抜粋)

ヨーロッパでナポレオンが失脚すると、王朝たちは息を吹き返して、ナポレオン(フランス)の広大な領土を再編しようとした。

1814年に、90の王国と53の公国の代表が、ウィーンに集まって会議をした。

これが、『ウィーン会議』である。

この会議で、『ウィーン条約』が成立し、新しい国際秩序が生まれた。

この新秩序を、『ウィーン体制』という。

ウィーン体制は、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリア、フランスの5強国が、協調して現状維持と平和維持を目指すものであった。

ウィーン体制では、「軍事同盟(四国同盟、後に五国同盟)」と、ほぼヨーロッパの全君主が参加した「神聖同盟」が組み合わされて、国王の専制を脅かす革命を防いだ。

つまりこの体制は、「封建的なヨーロッパ」を維持するためのものである。

ウィーン体制の中心となって活動したのは、オーストリアの外相メッテルニヒである。

イギリスは、「ヨーロッパ諸国が封建的な状態にあった方が、自国の経済に有利だし、フランスの台頭を抑えられる」と判断して、ウィーン体制を支えた。

実際に、ヨーロッパの平和が終わる「普仏戦争(1870~71年)」までは、イギリスは繁栄していった。

中南米で独立戦争が広がると、イギリスは「中南米を自国の経済圏に組み入れるには、独立を支援した方が有利だ」と考えた。

そして、中南米をヨーロッパの一部と見なして干渉しようとするメッテルニヒに反対して、五国同盟から脱退した。

これにより、ウィーン体制は半身不随に陥った。

中南米の独立運動に対して、ウィーン体制は軍を派遣しようとした。

これに対してアメリカ大統領のモンローは、1823年に『モンロー宣言』をした。

『モンロー宣言』は、「ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の相互不干渉」「ヨーロッパの干渉は、アメリカの平和を脅かすものと考える」との内容である。

この圧力によって、ヨーロッパ諸国は軍事介入できなくなった。

独立を達成した中南米諸国は、社会改革が進まず、イギリスとアメリカの経済圏に組み込まれていった。

独立国たちは、立派な憲法を持っていたが、地主階層が私兵を使って国家を私物化する傾向が強く、クーデターが頻発していく事になる。

(2013.10.23.作成)


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