クウェートが独立すると、イラクは併合を主張する
その事情と背景

(『フセインの挑戦』小山茂樹著から抜粋)

1961年6月に、クウェートはイギリスの保護領から脱して、独立した。

独立宣言の6日後に、イラクのカセム首相は記者会見で「クウェートはイラク領の一部である」と主張した。

翌日にはイラク外務省が、次の声明を出した。

「イギリスを含む外国諸勢力は、クウェートに対するオスマン帝国
 の主権を認めてきた。

 オスマン帝国は、クウェート首長に『カーイム・マカーム
 (副知事)』の称号を与えて、クウェートにおけるバスラ州総督
 の代理人に任命してきた。

 歴代クウェート首長は、1914年までバスラ当局から行政
 権限を与えられてきた。」

カセム首相はこの歴史をふまえて、「イラクは、クウェートの現首長をバスラ州行政下のカーイム・マカームに任命する」とまで言った。

クウェート首長たちがカーイム・マカームの称号を受けて、オスマン・トルコの宗主権を認めてきたのは事実である。

また、クウェートとイラクは深い関わりを持ち、クウェートはイラク南部の穀物・果物・野菜・水に依存してきた。

イラク南部にはナツメヤシの広大な農園がいくつもあり、かつてはこの農園をクウェートの部族長たちが所有して、クウェートへ農産物を供給していた。

イラクは、1932年に独立した。

この時のクウェートとの国境は、1913年にイギリス・トルコ条約で規定されたもの、すなわち「ペルシア湾のワルバ島とブビアン島はクウェート領とするもの」であった。

しかしイラク政府は、クウェート分離を正式に承認せず、国境の確定をしなかった。

その後イラク政府は、クウェートに干渉しようとした。

推進者は王位を継いだガジ王(在位1939~58)で、クウェートの民族主義運動を支援した。

ガジ王の時代に最も影響力を持った、親イギリスの政治家ヌーリイ・サイードは、クウェートへの野心を煽った。

クウェートで1938年に石油が見つかり、46年に商業生産を始めると、イラクの野心はさらに高まった。

ヌーリイ・サイードはイギリスと組み、「イラクとヨルダンでハーシム王国連合を創り、この連合にクウェートを参加させよう」と試みた。

(当時のイラクとヨルダンは、ハーシム家が王家として君臨していた。ヨルダンは、今でもハーシム家が王家となっている。)

しかし、1958年7月にイラクでクーデターが起き、ハーシム王制が倒れて、このプランは潰えた。

1951年にクウェートは、改めてイラクに国境画定の協定締結を求めた。

この時イラクは、「ワルバ島がイラクに提供されるならば、協力する」と回答した。

そのため交渉は決裂した。

元来イラクは、ペルシア湾に面する海岸線は50kmで、良港がない。

そのため、バスラを使ってきた。

バスラは歴史をもつ良港だが、シャットル・アラブ川を90km以上も遡行しないと到達できない。

しかもシャットル・アラブ川は、領有権をめぐってイランとの紛争が続いてきた。

そこでイラクは、ペルシア湾に新たにウンム・カスル港を、第二次大戦中に開発した。

ところが、この港の目前にあるクウェート領のワルバ島が障害になり、狭い水路しか許されない。

この事情があるため、イラク政府は1954年に、クウェートの一部の海岸の支配権を主張した。

クウェートが拒否すると、クウェートを保護国にしているイギリスが仲介に乗り出し、イラクへのワルバ島の租借を提案した。

しかしクウェートは、56年にこれも拒否した。

こうして見てくると、イラクの主要な関心は「ワルバ島とブビアン島(航路の確保)」なのは間違いない。

そしてこの問題は、1990年のイラクのクウェート侵攻の理由の1つだったのも間違いない。

(2014年8月19~20日に作成)


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