1982年にイスラエルが攻めてきて、ベイルートは廃墟になる
ヒズボッラーの自爆攻撃が効果を現す

(世界の紛争 イスラム・アメリカ対立の構図から抜粋)

1982年6月に、イスラエルのベギン政権は、「自国の安全保障を維持するためには、レバノン南部を占領する必要がある」と主張して、レバノンに侵攻した。

小国のレバノンにイスラエル軍を迎え撃つ力はなく、隣国のシリアが加勢してイスラエルに応戦した。

しかし10日を経ずして、レバノンの南半分はイスラエルに占領された。

首都ベイルートは70日間にわたって包囲され、爆撃によって1.9万人の死者を出し、ベイルートは廃墟と化した。

ベイルートには当時、PLO(パレスチナ解放機構)の本部があり、アラファト議長は西ベイルートにいた。

イスラエルは停戦の条件として「アラファトらPLO全員のベイルートからの追放」を求め、PLOはベイルートを出た。

イスラエルは南部レバノンに居座り続け、傀儡政権の樹立を企図して、レバノンに和平条約の締結を迫った。

米、仏、伊は、連合軍をレバノンに送り込んだ。

連合軍の主体となった米軍の真の狙いは、「イスラエルによる傀儡政権の樹立を後押しすること」だった。

米軍はシーア派とドルーズ派を砲撃して、イスラエルを支援した。

レバノンとイスラエルの和平条約が正に調印されようとしていた時、レバノンのシーア派武装勢力「ヒズボッラー」が自爆攻撃を開始した。

83年4月にアメリカ大使館はヒズボッラーの自爆攻撃を受けて、17名のCIA要員を含む63名が死亡した。

10月にはヒズボッラーは米海兵隊の本部を襲い、241名の米兵が死亡した。

これは、ベトナム戦争以降に米軍が被った最大の被害であった。

11月にはイスラエル軍の本部を襲い、イスラエル兵60名を死亡させた。

84年4月になると、米軍は撤収を行い、数日後に仏と伊もこれにならった。

イスラエルも、その2年後にはレバノンのほとんどから撤退した。

レバノンの独立は、ヒズボッラーによって守られたのである。

○ 武装勢力アマルとヒズボッラー

アマルとは、希望の意味をもつ言葉。

レバノンでは、イラン革命(1979年)に鼓舞されて、アマルというシーア派の武装勢力が出てきた。

(イラン革命は、アメリカの傀儡政権だった国王をシーア派の人々が打倒したものです)

レバノンの全人口の5分の3はイスラム教徒で、全人口の5分の2はシーア派である。

しかしシーア派は、最下層に位置づけられて虐げられてきた。

このアマルから、さらに過激な武装勢力ヒズボッラーが生まれた。

ヒズボッラーとは、「神の党」の意。

ヒズボッラーは1992年からは総選挙に参加して、政党としても活動している。

2000年にはレバノン南部からイスラエルを完全撤退させた。

(2016年11月1日に作成)

(イスラム・パワー 松村清二郎著から抜粋)

1982年6月6日に、突如としてイスラエル軍はレバノンに侵攻した。

81年に国防相となったシャロンは、就任した時から侵攻を計画していたという。

イスラエルは、PLO軍を駆逐して、レバノンに新政権を樹立することを目指していた。

イスラエルは、マロン派キリスト教の政権を樹立させ、この政権と和平条約を結ぼうと画策していた。

狙いはレバノンの水資源の確保で、ヨルダン川とハスバニ川の源流地域は現在(この本の書かれた1989年当時)でも制圧したままである。

イスラエル軍は、侵攻の1週間後にベイルートを包囲し、PLOゲリラの降伏ないしは国外退去を要求して、砲撃を行った。

この無差別砲撃は、TVで世界中に中継され、イスラエルの侵攻を黙認していたアメリカのレーガン政権も動き出した。

これにより、8月21日からPLOのベイルート退去が開始された。

アメリカ、フランス、イタリアなどは多国籍軍を結成して、8月下旬にレバノンへ派遣した。

以後、84年2月までアメリカ軍はレバノンに駐留する。

イスラエルは、マロン派の民兵組織の指導者であるバシール・ジェマイエルを擁立して、傀儡政権をつくろうとした。

8月23日に、バシールはレバノン大統領に選出された。
この選出には、イスラエル軍の介入があった。

しかしバシールは、9月14日に爆破テロで暗殺される。

これを見たイスラエル軍は、翌15日にマロン派の軍と会談。
ベイルートのパレスチナ難民キャンプを攻撃することを決め、難民キャンプで大虐殺を行った。

この虐殺で、2000人以上が殺されたという。

イスラエルはマロン派政権樹立のシナリオの放棄を余儀なくされ、アワリ川まで軍を後退させた。

イスラエルの海外情報部(謀略機関)のモサドは、マロン派民兵組織がレバノンで政権を樹立できると考えて、同盟を結んでいたという。

しかしそれが間違いと判明し、軍を後退させたのだ。

アワリ川に駐留していたイスラエル軍は、現地のシーア派住民と10月16日に衝突。
アワリ川からも撤退せざるを得なくなった。

他方で、アメリカ軍の介入には当初から問題があった。

それは、レバノンについての知識が無かったことである。

アメリカの誤算は4つあった。

① レバノン国軍を育成できると勘違いした

② レバノンで有効な軍事作戦を行えると信じた

③ バシール・ジュマイエルの新政権をつくれると勘違いした

④ アメリカ世論が支持してくれると勘違いした

82年9月1日にレーガン大統領は、中東和平の新計画を発表した。

「ヨルダン方式」と呼ばれるもので、「ヨルダン川西岸とガザ地区を、ヨルダンとの連邦形式で自治させる」という内容だった。

これをイスラエルは拒絶した。

そこでアメリカは次に、レバノンからのイスラエル、シリア、PLOの撤収を目指すことにした。

全く奇妙なことに、アメリカはこの事についてイスラエルとしか交渉せず、シリアとPLOを無視した。

イスラエルとレバノンは長い交渉をし、83年5月17日にアメリカの仲介で、協定を締結した。

しかしシリアはこの協定に不満を持った。

さらにレバノン議会でも協定への反対が多く、批准できなかった。

結局、同協定は自然消滅していく。

83年10月23日には、自爆テロによってアメリカ兵241人が殺される事件が起こった。

これにショックを受けたレーガン政権は、84年2月までにアメリカ軍をレバノンから撤収させる事を決めた。

(2016年11月6日に作成)


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