タイトルサイクス・ピコ協定(オスマン帝国分割の秘密協定)

(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)

オスマン・トルコ帝国は、19世紀に入るとヨーロッパ列強国に狙われるようになった。

1841年には、列強国の介入により、エジプト総督ムハンマド・アリーの独立化(エジプト独立化)を承認させられた。

1877年には、「サン・ステファノ条約」によって、ブルガリア、セルビア、ルーマニア、モンテネグロの独立を承認させられた。

1878年には、「ベルリン会議」によって、ベッサラビアのロシアへの割譲を承認させられた。

1882年には、イギリスはエジプトを占領した。

オスマン帝国は、様々な介入してくるロシアとイギリスに対抗するために、ドイツと手を結ぼうとした。

1914年8月2日に、ドイツと同盟条約を結び、12月に始まった第一次世界大戦にドイツ側で参戦した。

大戦中の1916年5月に、勝利を確信したイギリスとフランスとの間で、「戦後のオスマン帝国の分割についての秘密協定」が締結された。

これが、『サイクス・ピコ協定』である。

イギリス代表のマーク・サイクスとフランス代表のジョルジュ・ピコの名から、この名称が付けられています。

この協定は、英仏にロシアを加えた秘密協定や、「サン・ジャン・ド・モリエンヌ協定(イタリアの利権にからんだ協定)」とセットになっていたようだ。

しかし、ロシアがボリシェビーキ革命(共産主義革命)で脱落し、イタリアは様子見をしたため、英仏2国の協定となった。

英仏は協議によって、シリアとレバノンを仏国の委任統治領とし、パレスチナ・トランスヨルダン・メソポタミアを英国の委任統治領とした。

この協定により、アラブ諸国が独立をするのは、第二次大戦以降となってしまった。

この時に引かれた国境線をベースにして、アラブ諸国は第二次大戦後も、米ソなどの大国の影響下から抜けられずにいる。

(『誰にでもわかる中東』から抜粋)

『サイクス・ピコ協定』は、1916年10月に成立した。

これは、英・仏・ロシアでオスマン・トルコ帝国の領土を分割する事を決めた、密約である。

この密約は、アラブ人には秘密にされていたが、ロシア革命が起きてボリシェビーキが政権を握ると、他の密約と共に一挙に暴露された。

(2013.3.28.作成)


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