第2代国王サウード

(サウジアラビアを知るための65章から抜粋)

第2代国王のサウードは、馬鹿げた事に散財した。

100人以上の女性と婚姻関係をもち、無知な息子たちを閣僚級のポストに就かせた。

彼は、閣議すらまともに運営できなかった。
どもらずに話す事ができなかったからだ。

歴代の王の中でも、悪評が高い。

彼は初代国王のイブン・サウードの36人の息子の中で、最年長だった。

サウードは、政治・軍事の手腕が若い頃から認められており、イブン・サウードの留守中にはリヤドを治め、各地で軍隊の指揮にあたった。

イブン・サウードが刺客に襲われた際に、自らが身を呈して、肋骨を刺されながら国王をかばったというエピソードもある。

若い頃は質実剛健で信仰心が深かった。

サウードは石油利権について諸外国(主にアメリカ)と交渉をするようになってから、質実剛健さを失っていった。

国王になった後は、経済発展で功績をあげた。

後に海運王と呼ばれるギリシャのオナシスに「サウード・タンカー社」を設立させて、石油の海上輸送にロイヤリティを課した。

アメリカのアイゼンハワー政権は、アラブの民族主義を抑制するために、中東介入の窓口としてサウジに白羽の矢を立てた。

当時、中東ではエジプトのナセル大統領が主導するナセル主義(米欧の支配から脱する事を目指すアラブ民族主義)が流行っていた。

ナセルを支持するサウジ国民と反ナセルのアメリカとの間で、サウードは揺れ動いた。

1958年に、サウードがナセル政権転覆の陰謀を企てた事がリークされ、サウードの評価は失墜した。

ファイサル皇太子は外交能力に長けていたため、王族内でファイサル支持が高まり、58年にファイサルを首班とする内閣が発足した。

サウードは統治者の地位を奪われ、64年3月にはすべての権限をファイサルに委譲するように求められた。

同年11月に、サウードは国王を退位して、エジプトに亡命した。
そして69年にギリシャでこの世を去った。

サウード時代は、異なる能力を持つサウードとファイサルが競合していたからこその功績も多い。

60年前後には、「農業水資源省」「教育省」「石油鉱物資源省」「巡礼・イスラム省」「情報省」などが設置されている。

(2016年11月10日に作成)


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