(『シリア・レバノンを知るための64章』から抜粋)
現在のシリアやパレスチナは、古くは「カナン」と呼ばれた。
交通の要衝として栄えたこの地は、まさに文明の十字路であった。
だが紀元前1200年ころに、「青銅器時代の崩壊」と言われる大きな変動が訪れ、(シリアの隣国である)エジプトとヒッタイトの2大国が衰退した。
古代イスラエル人や「海の民」という外来者の侵入が相次ぎ、カナン人も衰退していった。
その一方で、2大国がいなくなった事で地中海沿岸部は自律的な発展をし、海の民の影響もあって海上交易に乗り出した。
現在のシリアやレバノンから西方に(ヨーロッパに)交易に行った人々は、ギリシア人から『フェニキア人』と呼ばれた。
フェニキア人が西方(ギリシア世界)にもたらしたものに、今日のアルファベットの元になった文字がある。
ミケーネ文明の崩壊と共に使用していた文字(線文字B)を失ったギリシア人は、フェニキア人との交流で再び文字を知り、それを借用した。
フェニキア人が扱った交易品は奢侈品であり、有力者層に珍重された。
テュロス(ティルス)などのフェニキア諸都市は、各々が独自の王政を敷く、独立した都市国家だった。
旧約聖書の列王記には、フェニキアのティロス王とイスラエルのソロモン王が、共同で紅海の海運事業を興したと書かれている。
テュロスはフェニキア諸都市のリーダーとなり、中心になって交易網を拡大していった。
前9~8世紀に、フェニキア人の名声は頂点に達した。
彼らはスペイン南部まで進出し、キプロス島やクレタ島に拠点を築いた。
(サルディニア島で発見された謎多きノラ碑文は、フェニキア語だと考えられている)
地中海でフェニキア人の最大の植民都市になったのが、「カルタゴ」である。
カルタゴとは、フェニキア語で新都を意味する「カルト・ハダシュト」に由来し、伝承によれば建国は前814年だ。
(カルタゴは、現在のチュニスの近くに造られた)
前7世紀に入ると、新アッシリア国や新バビロニア国が台頭して、フェニキア諸都市はたびたび蹂躙された。
その混乱の中で、西方のカルタゴが勢力を拡大していった。
カルタゴは、母国テュロスから自立していき、前6世紀半ば以降にサルディニア島・コルシカ島・シチリア島・マルタ島などを傘下に入れていった。
やがて、テュロスが中心だった国際交易網は、カルタゴ中心に変わった。
この時期のカルタゴにとって、共和制になったばかりのローマはまだ敵ではなかった。
前509年に両国が結んだ条約は、カルタゴが優位にあった事を示している。
だが前3世紀に、ローマはイタリア半島を統一し、カルタゴと戦争を始めた。
地中海の覇権をめぐる100年にも及ぶ戦い(ポエニ戦争)は、前146年にローマが勝利を収め、カルタゴもフェニキア諸都市もローマ帝国に組み込まれていった。
(2014年8月13日に作成)