(『シリア・レバノンを知るための64章』から抜粋)
紀元前64年に、東方に遠征していたローマの将軍ポンペイウスは、すでに衰退していたセレウコス朝シリアを滅ぼした。
そして翌年に、シリアはローマ領に併合されて、属州となった。
この後ローマは、セレウコス朝が抱えていた問題、すなわちイランで大国家となっていたアルサケス朝パルティアとの抗争を引き受けることになった。
パルティア攻略は、クラッススの敗死(前53年)によって挫折し、逆にパルティア軍はローマ属州シリアに侵攻した(前51年と前41年)。
シリアの安定を回復させたのは、カエサルの部下であるアントニウスだった。
彼はシリアの大部分をエジプト女王のクレオパトラに与えようとし、それはクレオパトラの死によって妨げられたが、多くの半独立の小王国をシリアで認めた。
この「小王国を認めて庇護する(間接統治する)やり方」は、以降も受け継がれていく。
イエス・キリストが誕生した時にユダヤの支配者だったヘロデ王も、クリエンス(庇護国)の王の1人であった。
属州シリアは、多くのクリエンス王国を配して、複雑な政治構造を備えて出発した。
この地は対パルティアの前哨基地でもあり、常に4軍団が配置されていた。
ネロ帝の死後に乱立した4皇帝の中で勝ち残ったウェスパシアヌス帝(69年に即位)は、シリアやエジプトの東方軍団に推されて帝位を争った。
シリアは、同じく多くの軍団が配置されていたゲルマニアと並んで、野心家のローマ人の地盤になりやすかったと言える。
ユダヤ人は、ローマ帝国の支配に対して蜂起をしたが、70年のエルサレム陥落でほぼ制圧された。
以後は、ユダヤは1軍団が常駐する属州になり、もう1つのシリア州(シリア・パレスチナ州)になった。
(2014年8月13日に作成)