(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)
アサド大統領は、アラウィ派というマイノリティの出身だったが、政権を維持するためにはアラウィ色を極力薄める必要に迫られた。
そして、多数派であるスンナ派の者を、首相や内相のポストに起用した。
その一方で、忠誠心を求めて、治安・情報機関はアラウィ派で固めた。
これは「マハバラート」と呼ばれて、シリア人から恐れられている。
マハバラートは、次の組織で構成されている。
① 陸軍情報部
アサドの側近であるアリ・デュバ准将がトップを務めた。
② 情報総局(国家治安局)
内務省の管轄下に入っているが、実際は大統領に直結する
③ 政治治安局
④ 大統領に直属する警護隊
1~1.5万人のアラウィ派の兵士で編成されている
⑤ 防衛師団
アサドの末弟であるリファートが率いている
⑥ 大統領護衛隊(共和国護衛隊)
アサド夫人の甥であるアドナン・マフルールが率いている
⑦ 第三機甲兵団
アサドの従兄弟であるシャフィーク・ファヤドが率いていた
この他にも、アサドの親戚は軍や情報機関の要職についている。
マハバラートのほとんどの責任者はアラウィ派で、組織はそれぞれが独立しており、相互に競争してアサドへの忠誠を示すシステムになっている。
アサド政権の過酷さは、いくつかの暗殺にも表現されている。
軍事委員会の指導者だったムハンマド・ウムラーンは、1967年に国外追放となり、その後はレバノン北部のトリポリで暮らしていた。
ウムラーンはシリアでカムバックを模索していたため、1972年3月4日に暗殺された。
殺人者はシリア治安情報部と思われる。
1980年7月21日には、バース党の創設者の1人であるサラーフ・ビタールがパリで射殺された。
ビタールは、バース党政権がつくられた後に3回も首相を務めたが、1966年に国外追放されていた。
その後はアサドの政敵と関係を保っていた。
1977年3月16日には、レバノンのドルーズ派指導者のカマール・ジュンブラートも暗殺された。
ジュンブラートは、レバノン内戦の中でパレスチナ勢力と結び、シリア軍と激しく戦っていた。
1982年9月14日には、レバノンのマロン派キリスト教のファランジスト党首である、バシール・ジュマイエルも暗殺された。
シリア情報部の仕業だった。
ジュマイエルはレバノン大統領に選ばれたばかりで、イスラエルと組む男だった。
(2016年10月25日に作成)