(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)
1959年に、カイロ在住の5人の将校によって、バース党内で「軍事委員会」が結成された。
これは秘密組織で、5人のうち3人はアラウィー派だった。
アラウィー派の3人とは、ウムラーン、ジャディード、アサドである。
この軍事委員会の特異な点は、メンバーを極秘とし、バース党のいかなる組織にも属さなかったことである。
その意味で、バース党から独立した、バース党を支配するための組織といえる。
1961年7月に、ナセルが「シリアで国有化を進めていく」と布告すると、シリアでの反ナセル感情が爆発した。
同年9月にナフラウィ中佐によるクーデターが起き、『アラブ連合共和国(UAR)』は分解(解消)した。
その後に議会選挙が復活して、クドシ大統領の政権が生まれた。
しかし、富裕層による保守政治の復活にすぎなかった。
1963年3月8日に、ハリリ将軍らがクーデターを起こし、成功した。
これは、後に「バース党革命」と呼ばれるに至るクーデターだが、バース党はほとんど関与していない。
このクーデターの筋書きを書いたのは、軍事委員会の3人(ウムラーン、ジャディード、アサド)だった。
彼らは軍籍を剥奪されていたが、軍やバース党に働きかけたのである。
(この直前の2月8日には、イラクでもバース党軍部によるクーデターが成功していた)
新しい首相には、バース党のビタールが就任した。
しかしすぐに、軍事委員会がつくった「革命司令部民族評議会(NCR)」が全権を掌握した。
軍事委員会のメンバーは無名で若すぎたため、彼らはアミン・ハフェズ将軍を担ぎ出し、内相に就任させた。
63年7月に、200人のナセル派将校はクーデターを起こしたが、ハフェズらはこれを破りました。
バース党の一党独裁は、この時に真に実現した。
アミン・ハフェズは、国防相とNCR議長も兼任することになり、権力の頂点に立った。
しかし、実権は軍事委員会が握っていた。
委員会のメンバーは、党と軍の重要ポストに就いた。
この後、大量のナセル派軍人(ほとんどがスンニ派)の追放が行われ、アラウィー派を中心としたマイノリティが登用された。
(2016年2月6日に作成)