(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)
アサドは政権を獲るとすぐに、エジプトとリビアを訪問し、エジプト・リビア連邦への参加を表明した。
この連邦は実現しなかったが、アサドはエジプトとの軍事同盟をしようとしていた。
アサドは、ヨルダン、サウジ、ソ連との関係を改善した。
1971年に2度、モスクワを訪問した。
国内では71年2月に、すべての政治グループを包含する「人民会議」を設立した。
人民会議には立法権も行政権もなかったが、すべての政治グループが議論に参加できるのは、それなりの意味があった。
72年3月には、バース党以外にも政治活動を許すための「民族進歩戦線」を結成した。
この戦線には、左翼政党がこぞって参加した。
73年3月には、憲法草案を国民投票にかけて、憲法を制定した。
そして、議会選挙を行った。
選挙は民主的なものではなかったが、62年以来での事だった。
アサドの融和・調整主義は、政権の上層部に多数のスンニ派を起用したことに示されている。
アサド政権は、歴代首相はいずれもスンニ派を起用した。
その他にも、たくさんのポストでスンニ派の人を起用した。
73年に憲法が制定されると、「大統領はムスリムでなくてはならない」という規定が入っていなかったために、シリア国民は暴動を起こした。
これを見たアサドは、この規定を加え、シーア派の宗教指導者ムーサ・サドルに「アラウィ派は、シーア派の一派である」とのファトワ(教令)を出してもらった。
アサドは自分がアラウィ派というマイノリティのため、自らの政権を維持するためには、協調的な態度をとる必要があった。
(2016年3月14日に作成)