(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)
シリアの大統領になったアサドの念願は、『第3次中東戦争でイスラエルに占領された領土の解放』と『パレスチナ国家の樹立』だった。
「アラビア主義の旗手であることは、自分の政権の正統性を示すことに直結する」と、彼は思っていた。
アサドは、「イスラエルの周辺に位置するアラブ諸国が団結することが、パレスチナ問題を解決する道だ」と考えていた。
そして、「エジプトのリーダーシップの下でアラブ諸国はまとまる」と考えた。
アサドは、エジプトのサダト大統領と語らって、1973年10月に、イスラエルに先制攻撃を仕掛けた。
これが、『第4次の中東戦争』の始まりだった。
しかし、この戦争では、当初からエジプトとシリアの思惑には食い違いがあった。
サダトは当初から、「限定戦争」を望んでいた。
サダトの立場は、「スエズ運河の東岸に10cmでも土地を確保できれば、エジプトは強化される」であった。
一方アサドは、あくまでもゴラン高原の奪取を考えていた。
エジプト軍は、戦争開始直後にスエズ運河の東岸10kmを占領すると、そこから一歩も動かなかった。
アサドにはエジプトの思惑は知らされておらず、シナイ半島に進出したシリア軍は、イスラエル軍の攻勢にさらされた。
そして、イスラエル軍にダマスカスの50km手前まで攻め込まれてしまった。
アサドは、サダトに裏切られたのである。
エジプトは、米国の仲介でイスラエルとの交渉に入った。
そして「第1次のシナイからの兵力引き離し協定(74年1月)」「第2次のシナイからの兵力引き離し協定(75年9月)」を経て、78年9月に『キャンプ・デービッド合意』によってイスラエルとの和平に踏み切った。
シナイ半島は、2~3の油田を除けば、無人地帯である。
その一方、ゴラン高原はイスラエルの心臓部に近く、戦略的な要地である。
それはシリアにとっても同じだ。
シリアは、エジプトのように簡単には妥協する事は出来なかった。
ニクソン米大統領は、1974年6月に、米大統領として初めてシリアを訪問した。
第4次中東戦争の処理でキッシンジャーが活躍し、イスラエルのゴラン高原からの撤退がどうにか実現した直後の事だった。
アサドは、イスラエルの生存を認めた上で、中東和平に意欲を燃やしていた。
ニクソンは、アサドの人物を高く評価し、アサドの要求(イスラエルのゴラン高原全面返還への米国の支持)を呑みそうになった。
これを見たキッシンジャーは、ニクソンを強引に立ち去らせた。
ニクソンは、キッシンジャーの言いなりになったのだ。
キッシンジャーは、中東の段階的な和平には熱心だったが、包括的な和平には関心がなかった。
アサドは、エジプトとイスラエルが和平に踏み切った75年以降、エジプトを頼れなくなった。
そこで、シリア・レバノン・ヨルダン・PLOを統合して、「大シリア連合」を形成しようとした。
しかし、実現しなかった。
アサドは75年2月のインタビューで、「イスラエルが1967年に国境に戻り、ヨルダン川西岸とガザにパレスチナ国家が創られるなら、イスラエルと和平協定を結ぶ」と発言した。
この発言は、当時は驚きをもって迎えられた。
この構想は、キッシンジャーのアラブ分断作戦のために、実現しなかった。
しかし、この後にアラブ諸国の見解を代表するものとなっていった。
(2016年3月14日に作成)